この世で最悪の感情

今日は奢るよ。

えっ、いいの?

うん、いつもなんかお世話になってるし〜、そう言えばこの間お茶した時出してくれたでしょ。

そうだったっけ?

気にしないで!今日はいいから。

ありがとう。

という流れで二人分高級ディナー代15,000円をシャキーンと支払うのと、賭けで負けて15,000円シャキーンと支払うの、どっちが心地良いですかね。

同じ15,000円の支出です。同じ支出なのにも関わらず、試合の賭けで負けた場合の支払いは、嫌悪感を感じます。

そしてその嫌悪感の行き先が愛する人だと矛盾が生じます。愛する人に嫌悪感や敵対心を感じるというのは、僕的には、心が感じられる感情の中で最悪の感情だと思うんです。誰かが憎いとか、そういうレベルの感情ではないです。この世で最悪の感情です。

愛と憎しみが干渉する感情は、この世で最悪の感情なのです。ナルトとサスケのようですね。サスケは感情ガン無視でナルトをぶっ飛ばし写輪眼を開眼させましたが、それくらいぶっ飛んだ最悪の感情というのが、愛する人への憎しみなのです。

マジで号泣したし、二度と味わいたくない感情だと思った。

賭けは悲しいかな。

みんな違ってみんないい

11月の13日です。昨夜大鹿村から帰還しましたが、南から低気圧が流れ込んでいるらしく、さっきはパッドを叩きながら半袖になってしまったくらい暖かく、もやっとしています。

大勢の家族と1週間と少し過ごしましたが、今こうしてオフィスでひとりになると、なんだか寂しいですね。寂しいと同時に、また明日から集中の毎日が始まると思うと、この静寂と孤独は必要であるのかなとも感じます。

この1週間の滞在で特に思ったのですが、頭で考える「こうあるべき」という概念は人を苦しめるということ。確かに、改善や成長は誰しも必要かと思いますが、「こうでないと失格」と言わんばかりに、「自分の常識」という非常に制限された概念の中で「こうあるべき」と決めつけてしまうと、どうにもこうにもフィールグッドにはならない。何故かと言うと、人間誰しも性能や特性は異なるし、人それぞれが完璧であるのにも関わらず、自分という個々の常識で人をジャッジしてしまうと、相互的に優劣が生まれるからです。私は出来ているけどお前はできていない、だからお前は私以下だ、という風に、平等な関係を維持することができなくなる。するとどうなるかというと、常識外の人へは愛を表現できなくなってしまうのです。

この状態は、自分のほうが正しくて、相手は間違っていると思ってしまうというエゴの仕業で、相手を正したり、相手に自分の常識を押し付けることになります。エゴにとっては気持ちいいかもしれません。相手を操作して、否定して、自分があたかも優位であるように感じられますから。

でもこれは実はよく観察すると、とてもフィールバッドな状態なのです。どう考えてもフィールグッドではないでしょう。常識を押し付けるイコール、自分自身で自分を制限している内容を再生していることになるのですから。相手は関係ないのです。自分を苦しめている常識をただ人を通じて見ているだけなのです。

みんな違ってみんないい。表面的なところしか見えないから、人を嫌いになる。そして人を表面的にしか評価できず、表面的にしか愛せない。本当のその人や、本当の愛はそれを越えたところにあるのです。

仕合わせ

長野県大鹿村から中継でお届けします。中継でもなんでもないんですが、たまにはというか、大鹿村からブログを書いた記憶があまりないので、最近の感覚をアウトプットしてみたいと思います。いくつ出てくるか分かりませんが、ひとつずつ。

まずひとつは、生きることについて。人は生まれたくて生まれてくるわけではありませんが、生を授かった以上、生きなければなりません。自分が誰のもとに生まれようと、どこに生まれようと、どんな時代に生まれようと、生を授かった以上生きなければなりません。しかしながら、人は皆平等と言えど、生まれた環境によって人生の内容は大きく左右されます。へんてこな親のもとに生まれた。教育や教養が未熟だった。自己が確立しないままに社会へ出てしまった等など、この人間の創り上げた文明に対応できない状態で大人になってしまうと、様々な弊害が生まれます。

ここで残酷なのは、弊害を持ち合わせようといなかろうと、生を授かった以上生きなければならないということです。さらに残酷なのは、弊害を持ち合わせている人に限って、さらに人生体験が悪化していくという事実です。金銭面だけならともかく、それが肉体、そして精神に悪影響を及ぼしていくのです。するとどうなるかというと、選択肢がなくなっていくのです。自分のしたいことができなくなる。そして自分のしたくないことをしないと生きていけなくなるのです。

したくないことをしないと生きていけないという状態は、自分の意志を尊重しない生き方と同義となります。それは自己否定や自己嫌悪、さらに過去や人を恨みながら生きるという、言い方は良くありませんが、一番NGな生き方となってしまいます。この状態を起源としてしまうのが、中毒(Addiction アディクション)です。酒タバコ、薬、セックス、ギャンブルなどを介して、自己否定を忘れるために中毒に走るのです。するとさらに体と精神は蝕まれていきます。自分の持つ過去の痛みを治癒するのではなく、中毒で自分の向き合いたくない感情を紛らわすのです。

ではここからの脱出方法はあるのか?残念ながら、中毒に苦しむ本人に中毒を克服したいという意志がない場合、自ら中毒を克服するのはほぼ不可能でしょう。中毒は溺れている状態であり、その人に泳ぐ力がない場合は水面に上がることは不可能だからです。これは万事休すなのか?ほぼ万事休すです。救命救助隊が浮き輪を投げてくれないとほぼほぼ終わります。ただ面白いことに、浮き輪を投げてもそれに掴まろうとしないどころか、浮き輪が助けの浮き輪に見えず、浮き輪が余計なお世話に見えてしまって浮き輪に手を伸ばさなくなってしまう状態もあり得るということです。おーい、お前溺れそうやで。大丈夫か?はよ浮き輪に掴まるのだ!と言っても、は?余計なお世話や!こっちはこっちで大変な思いしてるんや!貴様に私の何がわかる!と言わんばかりに浮き輪に掴まることを拒むのです。

しかしです。友人が溺れかけていた場合は別です。掴まることを拒んでいようと、助けねばなりません。友人を見殺しにすることはどうしてもできない。ただ浮き輪に掴まることを拒んでいる人を助けることは至難の業です。もがき溺れて自己を失ってバタバタしながらパニクっている人を掴んで引っぱり上げることは大変なのです。それでも助けないと死んでしまいます!だから強引にも手を掴んで引っぱり上げます。マジで疲れるし、しないのでよければしたくないし、ましてや助けてもらうことを拒んでいるのですから、無理やり助けなくてもいいのではないかとさえも思ってしまいます。でも助けないとダメなんです!ワンピースのルフィの声が聞こえてきます。仲間だから!!

さてなぜにこんな話をしているかというと、リアルガチのお助け案件が現在進行形でございまして、マジの救出案件。助けないとマジでこいつ終わる。っていう案件が今あるんです。終わる?人間としてです。

あとはここ数ヶ月の出来事のお陰で色々となんか吹っ切れた気がした。理想とか、人生こうあるべきとか、全部なくなった。人生とは、今この瞬間を100%体験して、共有し合うことなんです。そこに駆け引きが生まれるから人生おかしくなる。隠し事、決めつけ、偏見、騙し合い、脅迫、そして攻撃と謝罪。これらがあるから人生体験がおかしくなる。生きているだけ、その場に一緒に居れることだけが最高で、それ以上でもそれ以下でもない。

人が好きとか嫌いとか関係ない。ただの選択。そしてただの縁。縁があって、選択が一致するなら、それ以上の仕合わせ(幸せ)はないのだから。

記事画像は隣の中川村の銀杏並木
Google Maps

こちらは昨夜の皆既月食の夜空
これがiPhone 14 Pro Maxの実力。あっぱれ!

LIFE IS GOOD.

Twitterのジャック・ドーシーは一日一食らしいのですが、本日私なんと三食も食べてしまいました!腹減りすぎ!てかジャックは晩飯だけとか、日中はマジでプチ断食効果でキマってんだろうなぁ〜。すごいなの一言。

たまにあるんだよね、マジで犬みたいな一日を過ごす日が。飯食って昼寝してまた飯食ってみたいな。結局今日仕事始めたのは夕方だし笑 でもね、仕事量が多くなるとこうやって手が止まってしまう傾向にあるのは確か。なんか終わりが見えないから、手を付けても意味ないみたいに感じちゃって、だらけちゃう。だから今日の学びは(今日というかいつも気づくのだが)ちゃんと一日の成果を決めてタックルすること。やればずっとやり続けられちゃうからこそ、プロジェクトの工程表と納期を確認して、逆算してタスクとエピックをやっつけることができれば、もっと自由な時間が増えるし、精神的負担も減ると思うんです。

ということで、明日はちゃんとやります!寝る前に明日の予定を立てます!こんなに仕事があるのが久々すぎてちょっとブレてるかな。プレッシャーとかストレスはゼロなんですけど、もう少し効率化できるかな、という感じ。今までと違って仕事だけが仕事じゃなくなってきているので、別のアプローチを模索中というところです。

さて明日は10月最後の金曜日ですか。いいね。まぁ曜日は関係ないんですけどね。今週末は久々のお家Weekend. あっそうだ、まだ今年は灯油を買ってなかったんだ。明日買いに行こう。これを書きながら気持ちいいあくびが出てきました。洗濯物を干して、歯を磨いて、目が重くなるまでピアノでも弾いて、寝ようと思います。ふつーのブログ記事が書ける幸せ。ひろきからはカレー今までで一番美味かったって褒められるし、明日はラーメンナイトだし。うん、LIFE IS GOOD.

Good fucking luck

今まで通りに戻るだけです。なんの変哲もない生活に戻るだけです。そもそも何もないところから始まっている話です。邪魔者の居ない、平穏な生活に戻る。なんて清々しいのでしょうか。荒れゆく嵐が去り、静寂とともに太陽の陽が照らされる。今まで通りの生活がどれほど幸せで完璧であったかを思い知らされました。それに加えられるものなど何もなかったんです。既に完成していた。そこに何かを足そうとするからおかしなことになったんです。

そしてこの泥沼話は今日で最後にしたいと思います。ということで最後に一言。

Good fucking luck.

歴史上で最大の泥沼

いやぁこんな記事書きたくないけど一応俺の歴史上で最大の泥沼にハマっちまったんで記録までに書こうと思います。どんな沼だったかと言うと、喩えて言うならばネズミ講のようなネットワークビジネスのような、そんな沼にハマってしまいまして、なんだろう、自分的には自分のしたいことと思ってやっていたんですが、それがどうも新種の詐欺だったようなんです。僕もこんなことは初めてだったので、経験不足というか知識不足のせいなのか、途中怪しいなとは何度も思っていたのにも関わらず進めてしまったのがいけないのですが、まんまと騙されました。しかも一番頭にくるのが、以前から口酸っぱく警告があったのにも関わらず、自分はそれを聞かずに遂行したという事実です。どう考えても最初からおかしかった。本当に良質なビジネスであったのであれば、初期の段階であのようなトラブルはどう考えても起こってなかったんです。そっからですよ。洗脳が始まったのはw 思うツボでしたねー。いやでも凄いのが、本当に自分(しょうき)が悪いかのように思ってしまうんですよね。自分の中では何の悪いことはしてないと思っていても、相手にお前が悪いと言われるとあたかも自分が本当に悪いかのように思ってしまうんです。そしてそれを修正してもどんどんどんどん別の洗脳がされて、何をどうしても自分に非があるように思えてくる。ですがそれは残念ながら(幸いにも)、ただ単に詐欺師の腐ったサイコパス脳に洗脳されていただけっぽいのです。この事に気付いたのです。統一教会などの霊感商法と全く同じです。人の弱みや欲望を利用し、人を操作する。そしてその人を、始まりの地点よりもさらに低く深いところへ堕落させ、思うままに引きずり回すのです。人を勘違いさせるような発言や行動を連発し、魚を釣るかのように餌を散りばめる。そして喰い付こうとしたその瞬間にすべてを奪取するのです。問題点は、自分がその欲望のままに進んでしまっていることではありません。統一教会に入信した方々も、自分や自分の家族がより幸せになりたいと願っていた時に、手を差し伸べられるような形で入信したと思うのです。つまり、入信する教会は「あなたの幸せを願っているし、あなたをより幸せにしてくれる」と思って入信するわけです。入信先のことを「実はあなたのことなんて一切考えていなく、組織の利益しか考えていない詐欺集団」とは微塵も思わずに入信しているわけです。そこからまさか自分が搾取されるなんて夢にも思っていない。ここで僕のように途中で目が覚めればいいですが、弱みと欲求をターゲットにされると、中々自分が騙されているなんて思えない。思えないと言うか、信じ込んでしまっているので、自分が詐欺られていることすらわからなくなってしまうのです。この状況がまさに今の僕、というか昨夜までの僕に起こっていたことです。ヤバくないですか?ここ数ヶ月ずっと信じていた事がすべてただの洗脳だったことに気付いたのです。詐欺師はあんたの幸せなんてこれっぽちも考えていない。あんたのことなんて一切思っていない。組織の利益になることだけを考えて、相手を翻弄する。自分の理想以外のすべてを拒絶する大馬鹿野郎に自分の大切な時間と自分が頑張って稼いだお金と自分の尊い精神を費やしていたことに気付いたんです。悲しい出来事だとは思いませんか?今回に限っては酷すぎて悲しみはありませんでしたね。呆れもありませんでした。安堵だけ。とにかくこれ以上この悪夢を見なくて良いことに胸を撫で下ろすような気分です。Thank youって。長い一日を終えて、北千住から常磐線下りに乗った時のような安堵感。あぁ、やっと帰れる。帰って温かいお風呂にでも入ろう。お風呂から出たらオロナミンCでも飲んで、ソファに座って本でも読んでリラックスしよう。しっかり寝て、またあしたから新しい一日を始めよう。そしてもっと自分を大切に生きよう。自分の人生、時間は限られている。自分を大切にしてくれる人を優先して、自分も自分が本当に大切と思う人を優先して生きよう。そう思いました。疲れはない。

日向ぼっこ

本日は珍しく起床と同時に出社しました。仕事があることは大変嬉しいことです。8時から11時まで時間を最大限に圧縮して仕事をこなし、その後は何したっけ。飯食って散歩行ってピアノ弾いてパッド叩いておやつ食べて、うん、非常に安定の一日。

それにしてもなんか、すごい今なんか今までにないくらい、照らされている気分。なんかずーっと今まで日陰に居て、しかもなんか太陽を浴びたいのに、ずーっと自分で日傘をさしていたことに気付いたような、そんな感じ。あっ、全然日光浴って気持ちいいじゃんって。もっと前からやってれば良かったなって。なんか言葉に表せないから本当に悔しいんだけど、感覚的に言うと、今までずっと心の奥底には居たけど、表面化出来ていなかった自分を見つけられた気分。ずーっとしてみたかった事が今やっと出来てる。そしてそれが地球に良い影響をもたらす事だということも分かる。だからそれが嬉しい。難しいけど。

面白いのが、自分が信じる方向に意志を向けると、その道が面白いように開いていくのが見える。あとはただそれを進めばいいだけ。どんな旅路になるかは歩いてみないと分からないけど。ということは、信じれば道はできる。でも勇気がないと進めない。面白いですね〜この仕組み。だから、誰でも自分を信じることができれば、ゴールは勝手に作られるということ。それに辿り着けるかどうかは、あなた次第。当たり前に思うけど、あなたの勇気は本当に必要不可欠。ビビってるやつには神は何も与えない。

あとやっぱり、自分の感情をあらわにするってめっちゃ気持ちいいんですよね。自分の感情をあらわにするってどういう事って?自分の感情を言葉に出したり、仕草や表情に出したり、感情を表面化して表現することです。これができるようになると、逆にコミュニケーションの内容が向上する。言葉の意味がなくなるというレベルに到達するのです。何を言うも自由。けなすも自由。好きを表現するも自由。なぜならば、根本に愛があって、そこにお互いの気持ちがあって、お互いの選択があるのであれば、それ以上もそれ以下もないからです。

行動で完結する行動

何の役にも立たないこのブログですが、僕にとってはこの思考の整理と言いますか、思考のダンピング(荷卸)は欠かせません。自分をより知るための作業のように思えます。自分の考えていることや思っていることを、ただ考え思っているだけでなくて、実際に指を動かしてタイピングする(書き出す)ことで(見える化することで)、より自分を俯瞰しやすくなるのです。自分を俯瞰することができると、自分の悪い癖やパターンが出てきた時に、その負のエネルギーに意図的に飲み込まれずに自分の軸を保てるようになります。自分の感情がブレにくくなるのです。

それにしても最近は、書こうと思えば無限に書き続けられると思えるくらいの執筆エネルギーを感じます。最近、自分の中のとある感覚が、以前の感覚と変わったなと思う感覚があります。それは以前は、自分の行動全てが闇雲だったというか、ちょっと自分以外の何か(他人からの評価そして自己評価)に左右されていたというか。自分のしたいことをしていたという事実は変わらないものの、いつもその行動の先に何かを求めていた自分が居たなぁって。でも最近それが無くなったんです。どんな行動も、行動が行動で終わるようになってきた。つまり、行動そのものが一番に意味があることだから、それ以上を求める必要がない、という境地に辿り着いた感覚です。

例えば、インスタに何かを投稿する時って、僕は前はやっぱりいいねの数とかコメントの数とか結構気にしちゃってた。別にインフルエンサーでもないからフォロワーは友達しかいないのにも関わらず、いいねとか気にしてた。でもインスタもうそうだし、全ての行動において、その成果物と思えるような事が本当の価値じゃないんですよね。それがインスタをやる本当の価値ではない。本当の価値は、自分が自分の好きなものを好きな時に好きなだけ投稿したり、自分が好きなものを好きな時に好きなだけ見てリアクションしてコミュニケーション取ることが価値なわけです。

なんの見返りも求めないでただただインスタを使えるようになっているのが凄く楽しいし、その状態でこそやっぱり内容も面白くなっていくし(自分が本当に面白いと思うことした載せないから)リアクションや他の人とのコミュニケーションも良質になっていく。コメントとかも返信を気にしてたらコメントできないし、コメントに返す返さないはその人の自由だし、ただコメントすればいいのよ!コメントそのものが楽しいから。

この、行動で完結する行動ができるようになってから、全てが面白くなってきたんです。今まで、頑なに意味がないと思っていたこのブログ執筆だったり、ずっと好きだったけど、なんの価値にもならないからと避けていたことができるようになった。なぜならば、こうやって自分の思考や内面的成長を記録することがすごく楽しいからです。これが後に何になるとか一切関係ない。ただただ「なんか書くっていい」っていうシンプルな動機で行動する。その軽さが、本当の重さ!?(←名言出たんじゃね?)いやもう書くの超好き。そう、他にも仕事や音楽制作や、楽器演奏、料理、食事、生活などなど、すべてが今面白く感じるんです。

この尊い人生体験、くよくよしてる暇なんてありませんよ。生きてる間に何でもやっておかないと。この人生体験はいつ終わるかわからない、と心底から理解して、初めて今を生きれるようになるかもしれませんね。

いつだって自分を優先すること

寒くなってきました。フリース出しました。ホットカーペットはONです。温風ヒーターもONです。明日は多分灯油タンク2本でも買いに行くかな。

それはさておき!昨日の件ですが… どうにもこうにも全てが頭から離れません!いや、今これ書きながらめっちゃあくびが出た。なんて言うのかな、人間関係、特に親密な関係性って、ただ親密な関係になれればいいだけじゃない。これを履き違えるからおかしな結末がやってくる。本当に本当の親密な関係は、場所問わず状況問わず、変化しないのです。というか、変化すべきではないのです。例えば、親密な関係にある二人が、二人でいる時だけ心を開ける仲にあるとします。なのにも関わらず、そこに他者が介入すると、その親密感を隠すかのように別人と化してしまう場合、それは本当に親密な関係とは言えないと僕は思うんです。

なぜ他者が介入すると親密感を隠す必要があるのでしょうか?

親密感を他者に見せたくないのだと思います。親密感を他者に見せることを恐れているのです。これは残念ながら日本人特有の感覚であり、欧米諸国などではあまり見られません。なぜ親密感を他者に見せることを恐れるのか。それは、親密感に対して執着しすぎてそれが自我と同一化してしまっているため、親密感を他人に見せることイコール、自分の懐を見せると同じになるからです。

つまりその人にとって、自分が誰かと親密な関係になっていることは、一番隠したいことなのでしょう。

この隠れたがりな状態は、自分の意志までをも閉ざしてしまう力を持っています。自分がその瞬間に本当にやりたいことが、自分が今一番やってはいけないと思うことに変わってしまうのです。

この状態はマジでヤバいです。これから先もしその人と長いお付き合いをしていくのであれば、やはりお互いに、いつでも自分の感情に正直に生きれるようになっておきたいと思うのです。

なぜならば、相互の気持ちで成り立つ親密な関係ですから、相方が周りを気にして自分の感情に正直に生きれないとするのであれば、もう片方が感情に正直に行動した場合、すれ違いが起こります。「こっちはいつだってこうしたい」と願うことが、相方が無駄に気にしている他人のせいで、叶わなくなってしまうのです。

この状態をよく見ると、その制限されている方の人は、自分の感情に正直でないどころか、パートナーを思いやる気持ちよりも、自分の意志よりも、他人にどう思われるかの方が重要と感じているのです。これがNG。

そりゃそうです。自分の感情を抑え込み、他人にどう思われるかを優先して、自分の意志を閉ざす。この状態でふたりで先に進める訳がない。うちら二人だけの親密な関係性なのに、なぜそこに他人が介入する必要があるのか。なぜ他人にどう思われるかという概念に制限される必要があるのか。

他人を気にする必要はありません。ゼロです。これは自己中心的になれと言っているのではありません。自分に正直に生きろと言っているのです。

家なき子ですよ。「同情するなら金をくれ」という名台詞。他人を気にするイコール同情です。同情するなら、金をやるべきです。同情するなら、なぜ同情しているのかを考えて、それを解決できるよう、その人に自分を差し伸べるべきです。それが出来ないのであれば、あなたの同情こそ、あなたがその人にできる一番卑劣なことです。与えないのに与える素振りを見せる。酷いとは思いませんか。

あなたが思う一番の思いやり(人を傷つけないようにすること)こそ、結果一番人を傷つけることとなるからです。

とにか〜く!おれは自分に正直に生きる。無理なものは無理!好きなものは好き!したいことはするし、したくないことはしない!

常にこの瞬間に

10月に入りまた別の風が吹き始めた予感です。うわっ、てかMagic Keyboard with Touch IDにしてから初ブログか。ぶっちゃけさすがは最新のマジックキーボード、以前まで使ってたマジックキーボードよりもよりタッチ感が気持ちよくなっています。最高すぎ。

さて別の風の件ですが、いやもうこれは生き方そのものを根本から変えてしまうレベルの風です。何にも動じない心。さて動じないとはどういう意味か。簡単です。人生で何が起ころうと、自分の幸せは自分で守る。そういう意味です。これが他人であったり、物であったり、達成感であったり、自分の人生における出来事に左右されずに、どんな状況に置かれていようとも、自分の感覚、つまりは自分の幸せは自分で確保する生き方にシフトしていくということです。

この生き方に関しては昨今の自分の中では確立していたものがあったのですが、ここ数週間で少し揉まれる(渦に飲み込まれる)出来事があり(もちろん私自身の恐れを起因とした出来事です)、この数週間、なぜかここ何年も感じていなかった「不幸感」が押し寄せてきたのです。この渦から出るのは大変でしたが、今一度自分の感覚について問いただす機会をいただいたと思っています。良薬口に苦しと言わんばかりに、大分苦い体験でしたが自分には必要だったかな。なんか、自分の中で見つめ合うことを恐れていた自分の思う幸せへの弱点が浮上してきたっていう感覚。不覚だったー!笑

そう、つまりは自分じゃない自分が出てきてしまっていたということ。出来事は自分の幸せとは関係ないにも関わらず、出来事は自分の幸せと直結していると勘違いしてしまう要素がまだあったのです。まぁそれが今回は対象が異性だったというね。

結論はこうです。自分が描いていた幸せを追いに追った結果、幸せになれなかったどころか、今まで以上に不幸を感じた。理由は、その追っていた幸せは幻想だったから。幸せは常にこの瞬間にあったから。

です!おれはもう飾らない。