幸せを求めずに色々なことにチャレンジする

夢がありますか?目標がありますか?憧れはありますか? やってみたいと思いますか?

夢を叶えるため、目標を達成するため、憧れになるためにそれをやるんですか?
それともただ単にそれが好きだからやってみたいと思うのですか?

野球が好きだから野球をするんじゃないんですか?
イチローになれないなら野球はやらないんですか?
イチローレベルのプロになれないのなら野球はやる意味ないんですか?

何を目指すとか関係なく、自分がこうなったら幸せとか関係なく、ただやればいいじゃないですか。

そんなこと気にしないで色々なことにチャレンジしてみればいいじゃないですか。

人生何を達成するじゃないですからね。自分がどれだけエンジョイできるかですからね。

過去を繰り返している限り先へは進めない

過去は繰り返すことは出来ませんが、自分の感覚や意識状態に正直に向き合わず、物事や出来事を憎み、自分の意識状態が歪んだまま生きていれば、それは感覚的、意識的に過去を生きていることと同義であり、一見物事の形が変わっても過去は繰り返します。。

どういう事かと言うと、乗り越えるべき試練(制限)は、幻想に過ぎないことに気づかない限り、その幻想はあなたがそれを幻想であると気づくまで、繰り返しあなたの前に現れるということです。

それが「過去は繰り返す」という本当の意味です。

同じ過去、つまり出来事が繰り返すのではなく、自分の前に現れる「恐れという幻想」が繰り返し現れるということです。

私たち人間は、私たち人間の本質に気づくために生きています。

そのため、その絶対的な本質を生きれるようになるまで、宇宙はあなたに課題を与えるのです。苦しみが伴う、内面の反応を感じさせる精神的な課題です。

体という借り物、思考や恐れという幻想、そして物理世界という制限を越えて生きれるようになること(宇宙の普遍的意識として生きれるようになること)が、私たち人間の魂のレベルの目的であることを心得、目の前に現れる出来事や物事そのものではなく、それらから感じる内面的反応と真摯に向き合い、それらを越えて生きてるようになってください。

集中は眉間、第三の眼

人間には左右の眼以外の眼が存在しています。眉間(みけん)にあります。

これは視覚のために存在している眼ではなく、集中力や創造力などの、エネルギー体を見る(感受する)ために存在しています。

私たちが意識的に使っていようと使っていなかろうと、人間のいわゆるスーパーパワーと呼ばれる仕業は、必ずこの眉間のアンテナがMAXパワーで作動しています。

この状態には人間の理性が入る余地がなく、自動書記のような感じで、体が勝手に動き、その張本人でさえも理解が出来ないレベルの行動や創造が行われます。完全なる無思考状態のゾーンと言えます。

ではこれはイチローや辻井伸行くんのようなスーパーヒューマンにしか実行できない特殊能力なのだろうか?

いいえ、全く。今すぐにでもスーパーパワーを発揮できます。モードを切り替えたい時、スーパーパワーに頼りたいとき、何事に取り組む際も必ず眉間を意識するのです。

目は真っ直ぐ向いているのだが、感覚の方向を斜め上、つまり眉間の方角に向けて取り組んでみてください。

バッチリ集中できます。

何もしたくないという現実逃避が病気を生む可能性

人の消極性は人の細胞までをも消極的にしてしまうのではないかという考察です。

消極性、つまり何もしたくないという状態は、人間にとって危険な状態です。

生きているのにも関わらず生きたくないという矛盾を生きることとなってしまうからです。

さらに大抵の場合、何もしたくないという時に限ってやるべきことが残っているし、何もしたくないというのは嘘です。

すべきことをしないで、それから目をそらし、楽で受動的な事をして、向き合うべき人生から背きたい。それが消極性の正体です。

それが感覚的な消極性ならまだしも、人の細胞までをも消極的にしてしまうと問題が発生します。病気を生むのです。

そしてその病気が、自身の消極性を維持するための材料として、生き続けることとなるのです。

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何もやりたいことがないなら、他人の人生をどう良くすることができるかをやってみよう。

人生で求めるものは人それぞれ違う

当たり前じゃんって思いましたか?

そうなんですけど、あなたの持つ価値観、あなたの持つ意見、あなたの持つ選択、つまりあなたにとっての真実は、あなたしか持っていないもの。

あなたが大切と思っている事を粗末にしている人もいれば、あなたが粗末している価値を大切にしている人もいる。

これはどちらが正しくて間違っているという話ではなく、

あなたの価値観を押し付けるのは無意味 あなたの価値観で物事を考えるのも無意味

さらに、

あなたの価値観で人を判断するのは無礼 あなたの価値観でしか人の話を聞けないというのも無礼 あなたの価値観で人に指示するのも無礼

という事になる。

逆を言えば、誰かがあなたの価値観を否定することも無意味であり、気にすることでも落ち込むことでもないという事が言える。

何が言いたいかって?自分の中での正解は自分だけが知っていればいい。押し付ける必要もないし、人から押し付けられる必要もない。

自分のユートピアは自分で作って、そのユートピアは自分だけ知っていればいい。

感じれる世界はあなただけのもの。あなただけのルールをあなただけがただ生きればいいだけ。

緊張は無駄に他人を意識するために起こる

発表の場で緊張したりしたことはありますでしょうか。

練習は緊張しないのに本番は緊張する。緊張すると練習で出来たことが出来なくなる。

「緊張は無駄に他人を意識するために起こる」

そんなことは分かってるって?

本当に分かってますか?

これを分かって練習するのと、これをわからずに練習するのとでは結果が全く変わってきます。

やみくもに練習しても本番で100%のチカラが出せないのは、ただ上手になればいいと思って取り組んでいるからです。「上手になる」と一緒に「本番でも緊張しないようなメンタルを作り上げる」という練習をしていないからす。

「なぜ他人を意識してしまうのか」という緊張の根本的原因を自分で見つけ出し、理解し、それ自分で俯瞰できるように(眺められるように)ならなければ、緊張を越えたパフォーマンスを実施することはできないのです。

「時間がない」と「暇」は表裏一体

おれにはそんなことする時間はない。時間がないから仕方がない。時間があったらやるんだけどな。

そういう事を口にする人ほど、時間があっても何もしない。

やることねー。暇だわ。明日休みかー、何しよ。

時間があると感じるも、時間がないと感じるも、どちらも幻想。

今日は仕事で明日は休みというような、時間を概念化している人は特にそう。

毎日が毎日です。休みとか仕事とか言う概念は、自分が勝手に作った自分を制限させる概念。

毎日しっかりすべきことをする。毎日しっかりやりたいことをやってみる。毎日一生懸命いきる。

こうしないといつまで経っても生きたくも死にたくもない人生を送ってしまいます。

「時間がない」と「暇」は表裏一体なのです。時間を越えて生きよ。

実用性のない思考は全てガソリンの無駄遣い

日々の思考の何割が実際の生活に活用されているかを考えたことはありますでしょうか。

私たち人間は毎日必要以上に思考を使っているのです。思考を停止する事は自分の停止と同義となっているため、思考をやめることが出来ない。そのため毎分毎秒、どんな術を使ってでも自分の思考に餌を与えることをやめられないのです。誰かのことを考えたり。誰かにされたことを思い出したり。ニュースを観て世界を悲観したり、SNSを開いて知りたくもない情報に触れたり、とにかく何かをしていないと落ち着かない。

この無駄な思考に歯止めがかからない状態は思考中毒となり、多くの人々がこの中毒から抜け出すことが出来なくなっています。

思考は誰にも悪影響を及ぼさないため、この中毒は重要視されません。うるさくもありませんし、タバコのように臭くもありません。

しかしこの止まらない思考は本人にとっては大問題。これは車に喩えるとニュートラルでアクセル踏みっぱなしの状態で、どんどんエネルギーを奪っていくのです。人間は全ての行動にエネルギー消費しています。そのルールはジョギングであろうと考え事であろうと何ら変わりはありません。

集中できない、疲れやすい、風邪引きやすい、情緒不安定になりやすいなどの原因不明な不調は、この無駄な思考が原因かもしれません。

実用性の無い思考は全てあなたのガソリンの無駄遣いです。ガソリンは大切に、そして意図のある使い方を心がけましょう。

やりたい事に今すぐ取り掛かれない理由は恐れ

やりたいと思っているのやってないことってありますか?自分の夢を追うことだったり、筋トレはじめなきゃって思ってたり。でも今日もそれが出来なかった。思い返せばここ一ヶ月毎日しなきゃって思ってた。でも1日足りとも取り組めなかった。

理由は?原因は一体どこにあるのか。

そのやりたいと思っていることは、自分が本当にやりたいと思っている事ではなく「他人からどう思われるか」を変えるという目的で、自分が勝手に企画した偽企画だからです。

別に自分がやりたい訳じゃない。 他人にデブと思われるからやろう。 他人に見下されるからやろう。 誰かから認められるためにやろう。 誰かを見返すためにやろう。

自分ではなく他人ベースの動機となっているのが理由です。

無論、どこにも「他人」はいないのです。他人は「自分の中で作り上げているイメージ」にしか過ぎないのです。自分が自分に恐れているということ。恐れを越えて、今すぐ取りかかれ!

完全脱力時と完全注力の境目に神が宿る

仕事、武道、芸術、スポーツ。

どの分野においても、最大限の力(クリエイティビティ含む)は、完全脱力と完全注力の狭間に生まれます。

例えば野球。プロ野球実況を見たことがある人であれば、ピッチャーがストライクゾーンを外し、ボール球を投げた際に実況解説者が「今のは力みましたね」と言い放つのを一度は聞いたことがあるかと思います。

しかし力を入れないで時速150キロの速球をどう投げろというのでしょうか。元々力が入っている投球なのに、「今のは力みました」とはどういう事なのでしょうか。疑問に思ったことはありませんでしょうか?

これは完全脱力と完全注力のバランスが崩れた時の状態を言っているのです。この脱力と注力の狭間がベストであるゾーンから、注力側に振れた時、力むと言うのです。

つまり人にはリラックス筋という、このベストなバランスを保つ筋肉が存在するのです。これはスポーツに留まらず、芸術などの創作作業にも適用されます。

無理矢理に創ろうとせず、創る。集中と散漫の間を飛ぶのです。

この宇宙の法則はギリシャ神話「イカロスの翼」にて表現されています。