温度差のせいか、すこし身体の調子に違和感が・・・。今日は早くと寝るとします。
投稿者: shoki
ファッションは内面の投影
本日は仕事の後、ららぽーと柏の葉へと行って参りました。我孫子近辺のモールだと、千葉ニューのイオン、アリオ柏、あと記憶にあるのはちょっと遠目のららぽーと船橋へと、千葉のモールへは色々と行ったことがありますが、ららぽーと柏の葉の建物構造は少し変わっていてユニークで好きです。店の並びが円状になっているといいますか、意外と店舗も周りやすく、広いながらも疲れにくい感じです。今年の春くらいからファッションにこだわり始めたこともあり、徐々にファッションに気を付け始めた僕でありますが、ファッションは内面を表すと言わんばかりに、僕の内面の変化が著しいのかどうかは別として、やっと自分に似合うもの似合わないものの判断がわかるようになってきました。あと、今日出かけて思ったのは、もちろん似合う似合わないは大切なのですが、自分が来ていて心地良い、または自分が来ているものが大好き!という感覚も、似合う似合わないと同等レベルで大切である、ということです。たかが外見、されど外見で、身だしなみに気を付けることは良いのですが、やはりどうしても一番は自分の感覚、内面の状態になります。
まぁ本日は以前買った新しい茶色のパンツに、白シャツで行こうかななんて思っていたのですが、ジェイと洋樹にコーデされてしまいまして、結局自分の着たいものではない白黒コーデでお出かけすることになりました。別に周りがどう思うかは第二なんですね。繰り返しますが、似合う似合わないはもちろん大切です。しかーし!自分が着てて心地よい、または自分が着てて自分が一番いい形で表現出来ると思う内容でコーデをすることが、やはり第一なのです。今日そう思いました。結局は自分の意識状態。自分の内面とマッチするファッションが出来れば、どう人から判断されようと、コーデは成功です。何故ならば、自分の内面とマッチできれば、本当の自分で振る舞い、人と接し、コミュニケーションを取ることが出来るからです。ファッションは内面の投影。似合う似合わないは人の判断。自分が着てて自分が大好きになれるコーデをすれば、あなたはいつどこで何を身に纏おうと、世界一お洒落な人となるのです。
不倫の定義
先進国の連中は不倫ニュース大好きペインボディですから、どのニュースサイトを見ていてもそんな類いの記事が大量に転がっています。ただ、ちょっと面白いなと思ったことがあったので綴るとします。
とある記事を見つけ読んでみたところ、とある女性の体験談的お話で、子持ちの既婚者と12年間も付き合ったのどうのこうのというお話でした。不倫という関係だったのにも関わらず、12年間も付き合い、幸せで愛し合える関係が続いたそうです。さて内容は置いておいて、僕が気づいたことは、表面上の付き合う付き合わない、表面上の結婚、いわゆる頭で考える「関係」は非常に不健康である、ということです。頭で合意する関係性は、必ずしも心で通じ合える関係性ではないのです。さらに申し上げますと、頭で関係性を定義している限り、苦しみが伴うということもひとつあります。何が言いたいのかと言うと、頭で合意するイコール存在もしない幻想的な関係性が思考レベルで創造され、その時点で相手は相手ではなく、相手は「自分の思考で描く相手」となり、真のコミュニケーションが全く取れなくなってしまうのです。そう、彼が私のカレシ。そう、僕のカノジョ。カレシは私のものでカレシは私をハッピーにさせてくれるの。カノジョはおれので、誰にも触れられたくないんだ。地獄へ続く道を共に歩むのがこのご時世で定義されている「恋愛」であります。
ただ、僕の読んだその記事では、その当事者である女性は非常に幸せであったと見受けられました。頭で考えた時、常識や偏見を基に考えると、私は家庭が持てなくて残念だった、しっかりと正々堂々と結婚して彼と歩みたかった、などと述べておられましたが、逆に言ってしまえば、その常識という思考の枠から超越したところで人と付き合えたからこそ、彼女は幸せを感じられたのだと思うのです。12年は大分長いです。しかし12年も付き合えたなんて、しかもずっとラブラブで居られたなんて、魂と魂で付き合えたとしか考えられません。第3者の意見であり、常識的な観点からすると申し訳ないですが、その女性は不倫で良かったでしょう。不倫という言葉も言葉です。人間の哀れな自我を表すのに相応しいゲスな単語です。不倫は不倫ではありません。不倫は、自由に恋愛を出来ない人々が嫉妬している状態を指すのです。つまり不倫は一生出来ません。不倫は、自分以外の他人が常識的な観点から勝手に人をジャッジ(判断)することです。
結局僕ら人類は宇宙レベルからしてみれば存在していないのも同じ。地球レベルからしてみても、ミジンコやプランクトン、またはそれ以下の存在です。誰と恋愛しようと別にいいじゃないですかねぇ〜、ジャン君。
マルチカルチャルカンパニー
人は勉強と訓練を重ねればマルチリンガルになれるものの、マルチカルチャルにはなれません。マルチカルチャルとは、その名の通り、2つ以上の文化に精通していることを意味します。英語が話せるだけでなくて、アメリカの文化やポップカルチャー、スラング、そしてもちろん日本の文化も理解している。これこそ真のバイリンガルであり、バイカルチャルです。そしてそして、我がバスティル株式会社はジェイの参画によって、真のマルチカルチャルカンパニーへと成長と遂げました。もともと僕自身はマルチカルチャルでしたが、マルチカルチャルなジェイが入ったことにより、英語と日本語、アメリカと日本の文化が四六時中行き交う社内とへと変貌し、日本発でありながらも、超インターナショナルな会社になっていっています。インターナショナルとは色々な意味が含まれますが、仕事へ対する姿勢ももちろんこのインターナショナル感に含まれています。時間と場所に拘束されるのではなく、自由な環境、さらには自由なマインドの上で仕事に臨む姿勢であります。人生一度きり。大暴れしましょう。
タイタニックは止まれない
最近はほぼ毎日ジェイと生きています。バスティル株式会社初の新メンバーです。独立して以来ずっとひとりでやってきましたから、雇うという言葉が適しているかは別として、今後はしっかりと会社らしくしなければならないなぁと、少なからずプレッシャーを感じている今日このごろです。とはいえ僕の会社は世界中のどこを探してもないような社風であるため、ただ単に仕事が出来れば良い、ということではなく、フィーリングと意識状態が採用のメインポイントとなります。よくもまぁこの会社に入れる器の人間と出会ったものです。あっぱれです。
とか一応近況的なことを書いてみましたが、久々のブログ投稿となると、特に書くことも出てきません。ここ数週間で色々な出来事がありましたが、このブログに書くようなことでもなければ、文字に起こせるような簡潔なことでもありません。新しい学び、新しいという言い方はまた変ですが、改めて生きる指標を見せられた数週間でもありました。何て言うのですかね、人類のアホさ加減を知ったと言いますか、残念と思ったことも多々ありました。多くは語りませんが。ただひとつ言えるのは、僕らはタイタニック号の舵を取っているわけで、僕らの船に乗らない、または乗りたくない、または乗ってみたけれども降りたい、というのであれば、彼らを手放すことしか出来ないのです。つまり小回りが一切効かないので、ひとりのために引き返すことも出来なければ、目的地と到着時刻が決まっているため進み続けるしかないし、義理や同情が入る余地もないのです。彼らとは一生再会することはない、という運命だった、という結論にしか辿り着けないのです。
また今日からブログ投稿カンバリまーす。
喜怒哀楽
どうも思考の渦に飲み込まれてしまっている今日この頃です。人として生きてきた中で、数々の試練を乗り越えて来たと自負していますが、どうもこのヒューマンマインドの引力に負けてしまう時があります。負けるという表現は少し違いますが、今週は久々にやられている感じです。状況は自分の感覚に一切関係を持たない、そんなことはわかっています。ただ何かへの執着心が強ければ強いほど、この作用は強く生じる仕組みになっているので、まだまだ僕の中には何かへの執着心があるのでしょう。よくわからないですが。仕事とか生活の話ではありません。人の心とマインドを動かすのは、異性です。だからラブストーリーやらラブソングやらが売れるんですね。思い通りに行く恋などないのでしょう。人間として生きる喜怒哀楽の哀です。喜怒哀楽なしに生きられはしないのです。つまり僕がこのブログに喜びを綴ろうと、怒り、哀れみ、楽しみを綴ろうと、結局はすべて同じことを綴っていることになるのです。人生と書かれた正方形の各辺に一文字ずつ喜怒哀楽が書かれているだけで、結局はすべてをひっくるめて人生なのです。喜び怒り、哀しみ楽しみ人生を満喫しましょう。
と自分の感情を肯定して自分を慰めるとします。
今でしょ!
自由とは一体何でしょうか。自由とは生命が本質的に求める状態であり、我々人間は日々自由を求めて生きているかと思います。しかしこの自由の意味を本当に理解している人はごく僅かのようです。肉体的自由、環境的自由、金銭的自由と、色々な自由が存在していますが、真の自由とは「あるがままの自分を表現出来る」ことです。人間は公平であるとは、この事です。人間は「あるがままの自分を表現出来る」という公平な権利を持ち、生まれて来ています。
では何を得たら僕らは自由になれるのでしょうか。何を手に入れても自由になれません。ではいつになったら僕らは自由になれるのでしょうか。今でしょ!今ここででしょ!
「君の名は。」を観て思ったこと
Love is all you need. 必要なのは愛だけだ。
な〜んていう飾りに飾った人生における模範解答は聞き飽きた、いや、飾りすぎだしアホすぎで耳にすることもないことかもしれません。でも、数ある苦境を乗り越え、ある程度の意識状態まで行くと、これが本当に答えであることが心底から理解できるようになります。語れば長くなることを短く表現しますが、我ら人間、いや生命のすべては愛の象徴そのものです。愛なしにどう存在できるというのでしょうか。愛なしにどうこの世に命を授かり、この記事が読めるまでに育ったのでしょうか。誰かしらがあなたに愛を注ぎ、自己犠牲をしてくれたお陰で僕ら人間は生きているのです。しかし敬愛すべきその愛が、不運なことに、人類が自ら創り上げたマインドの世界に飲み込まれつつあります。昨夜「君の名は。」という映画を鑑賞しました。映画の冒頭に予告編放映の時間があると思いますが、紹介されている映画のほとんどが恋愛がテーマになっているのです。制作側が恋愛作品を意図的に多く作っているのか、単なる偶然なのかはわかりませんが、恋愛作品に金を出し感動を求めに行く人間の動機を考えれば、現代の人間は「愛に飢えている」というファクターが存在していることは火を見るより明らかであり、これが現映画業界のマネタイズ手法になっているのではないかと素直に疑問に思う程です。結婚願望が無駄に上がっている一方で、5,000人を対象にしたリサーチによると男女共に交際中率はいずれも50%近辺にまで低下。これは何を示すかというと、現実より理想が大幅に上回っている、ということです。目の前の人間を愛すないし人として認識し向き合う以前に、自らのマインドで描写する「何か(理想もしくは妄想)」がその人視界を覆い、人として生きる「人生」という美しく貴重な体験を生かせないでいる。すべてがマインドによって歪曲された体験となってしまっているのです。
私たちの使命はこの「何か」を超えることです。思考を超え、この今という唯一体験出来る「体験」をフルに感じ、魂と生命を感じ、生きることです。ジェットコースターに乗ったことがないのにジェットコースターを怖がっているのと同じです。乗ったらどうなるかを考えている暇があったら、乗ろうよ。生きようよ。愛そうよ!
しっかりと呼吸をしていない病
あら1週間も書いてなかったんですね。なんだかんだバタバタしていたのでしょう。今日のお話は呼吸にしましょう。呼吸は僕ら人間を天界と繋げるための松果体を生かすための行為ですが、この呼吸の重要さが現代において少しというか、自分を含めてかなり軽視されて来ているようで、多くの機能不全を我ら人間に及ぼしているようです。重要さに加え、呼吸の深さも浅くなっていることも事実であり、先進国における現代病と言われるものは、おそらく「しっかりと呼吸をしていない病」と定義できるのでは、と思い始めてきました。先進国におけるストレスと呼ばれるものはすべて呼吸が浅いがために感じられるもので、呼吸が浅いために自律神経が乱れ、正常が異常になる、という流れです。腹式呼吸をする際の体幹筋肉の衰えもこの「異常」に影響しているようです。ということで、繁昭誕生日おめでとう。
「その人で在れる空間」
セプテンバーさんこんにちは。そろそろひんやりシーズンになってきてもらいたい今日このごろでございます。それにしてもこんなにもやることが沢山あって良いのかと思うくらいやることが多いです。多分今日の時点で百科事典分くらいのタスクが埋まっちゃっているのではないでしょうか。まぁいいんですけど、縁ある人々に太陽のように無差別に愛を与えることはフルタイム勤務レベルで大変なのです。どのようにしたら皆が喜んでくれるのか。どのようにしたら皆にもっと豊かさを届けられることが出来るのか。今までは考えなかったような事を、27歳になった今、考えるようになりました。人それぞれユニークな人生を送ってきているわけですから、価値観や個々の幸せの定義は千差万別であるものの、それを関係のないものとしてしまう絶対的な生命レベルでの歓びを実現できるものがひとつあります。それは「その人で在れる空間」です。「その人で在れる空間」を提供することこそ、人に与えられる最高のギフトであり、真の対人コミュニケーションを可能とさせます。だからもしあなたが、誰かを幸せにさせてあげたい、という願望を持つのであれば、物やディストートされた愛を与えようと試みるのではなく、「その人で在れる空間」を与えることを心がけてみてください。世界が変わるはずです。