11月の13日です。昨夜大鹿村から帰還しましたが、南から低気圧が流れ込んでいるらしく、さっきはパッドを叩きながら半袖になってしまったくらい暖かく、もやっとしています。
大勢の家族と1週間と少し過ごしましたが、今こうしてオフィスでひとりになると、なんだか寂しいですね。寂しいと同時に、また明日から集中の毎日が始まると思うと、この静寂と孤独は必要であるのかなとも感じます。
この1週間の滞在で特に思ったのですが、頭で考える「こうあるべき」という概念は人を苦しめるということ。確かに、改善や成長は誰しも必要かと思いますが、「こうでないと失格」と言わんばかりに、「自分の常識」という非常に制限された概念の中で「こうあるべき」と決めつけてしまうと、どうにもこうにもフィールグッドにはならない。何故かと言うと、人間誰しも性能や特性は異なるし、人それぞれが完璧であるのにも関わらず、自分という個々の常識で人をジャッジしてしまうと、相互的に優劣が生まれるからです。私は出来ているけどお前はできていない、だからお前は私以下だ、という風に、平等な関係を維持することができなくなる。するとどうなるかというと、常識外の人へは愛を表現できなくなってしまうのです。
この状態は、自分のほうが正しくて、相手は間違っていると思ってしまうというエゴの仕業で、相手を正したり、相手に自分の常識を押し付けることになります。エゴにとっては気持ちいいかもしれません。相手を操作して、否定して、自分があたかも優位であるように感じられますから。
でもこれは実はよく観察すると、とてもフィールバッドな状態なのです。どう考えてもフィールグッドではないでしょう。常識を押し付けるイコール、自分自身で自分を制限している内容を再生していることになるのですから。相手は関係ないのです。自分を苦しめている常識をただ人を通じて見ているだけなのです。
みんな違ってみんないい。表面的なところしか見えないから、人を嫌いになる。そして人を表面的にしか評価できず、表面的にしか愛せない。本当のその人や、本当の愛はそれを越えたところにあるのです。