やる気、モチベーションが上がらないのは、どこかで不可能と思っている自分がいるから。

どうせ無理と思っている自分がいると、行動に移すどころか、行動に移すことすら無意味と感じてしまいます。

つまりは、モチベーションが上がらなかったり、やる気が出ないのは、自分で自分を勝手に決めつけている可能性があるということです。

やってもいないのに、挑戦もしていないのに、私には向いていないと思ったり。

自分はやりたいと思っているくせに続かなかったり。

さらにこの状態は、自分で自分のハードルを上げすぎている可能性もあるということ。

理想を高く持つことは良いものの、理想と自分を比較してしまう悪循環に陥ってしまうのです。

一生懸命に、そして継続すれば自然と辿り着けるであろうゴール、いや、そのゴールはただの通り道に過ぎないのにも関わらず、自分の中で設定したゴールという概念が、自分自身を苦しめることになってしまうのです。

不可能と決めつけているのは、唯一あなたが出来る取り組み(一生懸命に継続すること)から逃れようとしているだけです。

どんな取り組みも、どんな華やかに見えるものでも、地道な作業でしか無いのです。

やる気やモチベーションという仮想的な燃料に頼らず、自らの足で進み続けることが、どんな大きな壁をも乗り越えるための唯一の手段なのです。

エゴには完璧なタイミングが存在しない。エゴはいつも今じゃない。

今じゃないんだよね。

いやちょっと待って。

明日やる。

今忙しいんだよね。

急に言われても。

エゴは一体なんなのかという話にはなってくるのですが、要は今から逃げたくなる感覚の源となる、あなたの中に住んでいるお猿さんのことです。

今と向き合うより、楽で受動的なことを選ぶのがエゴです。

さらにエゴは、今じゃないと言っておきながら、明日明後日来週来月来年になっても行動に移さないということです。

なぜなのでしょうか。

それは、エゴは時間という概念で生きているからです。

今じゃないと言えるのは、時間という概念なしでは言えないことなのです。

なぜならば、時間という概念がなかったら、明日も来年も何も無いわけです。

やるかやらないかだけなので。

ですので、明日やると宣言してもいいですが、結局のところ、行動に移せる時は今しか無いんです。

どうします?

やりますか?

やめますか?

自分の喜びの共有は自分だけで十分

子供の頃は新しいことが出来るようになる度、母親や父親に「ねぇ見て!」と言って、自分の感動の共感を求めてたことかと思います。

その感動の共感は素晴らしいことです。

なんら問題はありません。

子供の時はです。

大人になってからは、この自分の感動、または自分の取り組みを他人に共有することが、承認欲求になってしまうことがあるため、要注意ということです。

ただただ共有することになんら問題はありませんが、凄いと思われたいとか、良いフィードバックを期待するなどをしてしまうと、ただの共有ではなく、承認欲求となってしまうのです。

これをしている限りは、そのあなたの取り組みは、自分が本当にしたいことではなく(または自分が自分のためにしていることではなく)、自分を誰かに認めてもらいたいがために行っている手段となっていることでしょう。

なのでどれだけ自分が自分で終わらせることができるか。

どれだけ自分の納得だけに留められるか。

それがあなたの取り組みの質を決めることとなるでしょう。

大切なのは何をするかではない。どれだけ夢中になれるかだ。

生きていると、自分を幸せにしてくれるものは何か、自分を満足させてくれるのは何か、を求めるのが人間の性です。

自分の天職は何なのか。

自分の好きなことは何なのか。

自分のしたいこと、やりたいことは何なのか。

つまりは、「何」という内容に意識が向きがちです。

しかし、これは人間の仕組みなのですが、その「何」という内容が我々人間を満足させることはないのです。

私はこれは嫌。

だから違う好きなことをする。

これはこれで素晴らしい選択です。

しかしその好きなことが、生きる上での「自分の満足」に繋がるとは別であると理解する必要があります。

さらにその「自分の満足」は、手に入れるものではなく、体験するものであるということです。

ではどのようにその「自分の満足」を体験することができるのか。

簡単です。

夢中になればいいのです。

夢中になっている時、あなたは幸せを求めていません。

夢中になっている時、あなたから時間という概念がなくなっています。

それです。

だから子供は何でもすぐ状態するし、何にも執着せずに今を楽しめているのです。

夢中になっちゃえ!

AYUのお話 PART.1

浜崎あゆみの音楽に育てられたと言っても過言ではない、僕の10代の全ての景色にAYUがいるんです。もし次女の子を授かるのであれば、名前はあゆみで決まり!

フォントパックまだM1にインストールしてないからタイトルのフォントデフォですサーセン

次はズームインと効果音入れた編集やってみます。

? March 8th, 2021

感謝は自分の中でしか感じられないもの。自分が傲慢になればなるほど、この感謝の感覚は自分の中から消え去っていく。

傲慢、つまりは「自分が他人より優っていると思い込み、あたかも自分は特別に扱われるべき」と思ってしまう事は、自我を持つ我々人間がやってしまいがちなエラーです。

ここでの考察は、この傲慢さという態度は、人が人を判断する態度に思いがちであるということです。

あの人の態度は傲慢だ。

無論、それはその人、とある人のことを傲慢と思ったことなので良いのですが、実は一番困る傲慢さは実はこれではない。

他人から傲慢だと思われるくらいの傲慢など、かわいいものなのです。

では一体その一番困る傲慢さとは何か。

自分自身がこの人生に対して傲慢になることだということです。

自分の思い通りにならない、いかないことを受け入れることができず、さらには自分の取り組みを棚に上げ、自分は特別であると勘違いをしてしまう。

この傲慢さを持ち続けるとどうなるかというと、他人に感謝を要求するようになるのです。

本当に困ったものです。

そして他人にすることは自分にしていることと同義であることは基本中の基本ですから、自分から感謝がなくなっている証。

感謝という名のこの森羅万象を受け入れる事ができなくなり、宇宙の断片としてこの無意味な世界を彷徨うただのエゴとなってしまうのです。

これは強さに見える、強さであると錯覚してしまう最大の弱さです。

さらに自分は宇宙に生かされているのではなく、自分で生きているという更に傲慢なサイクルに陥ってしまう。

感謝は自分の中でしか感じられないもの。

自分が傲慢になればなるほど、この感謝の感覚は自分の中から消え去っていくのです。

自分が傲慢になっていないか。

「自分」で人生を操作していると勘違いしていないか。

常に自問して生きてください。

他人が居すぎる。頭の中で他人が居すぎるとやばいことになる。

アイツとはもういいや。

アイツは最低最悪。

アイツには負けたくない。

その「アイツ」、その正体は実は他人ではないのです。

他人はどこにもいません。

ではその「アイツ」の正体は一体何か。

その「アイツ」は、あなたのエゴ(恐れや欲望)です。

あなたの恐れや欲望が、あなたの中で、他人の形をしてホログラムとして現れているのです。

「アイツ」の形をしているので、それはもう「アイツ」にしか見えないのですが、それはただの幻想。

「アイツ」に見えているだけで、残念ながらその「アイツ」は自分の意識状態を忠実に再現してくれているのです。

マイケル・ジャクソンのMan In The Mirror(マン・イン・ザ・ミラー)とは良くも言ったもので、内面に映るものは全てあなたが映し出されたもの。

ですので、自分の中に他人が居すぎる場合は、もうそれは警告です!

自分の恐れや欲望を人のせいにするという、大変卑劣かつ情けないことをしてしまっているのです。

自分の感覚は自分で責任を取る。

それができればあなたは真の成功者です。

まずは自分に優しくなれ。というか自分以外に優しくできない。

なぜにそんなに自分に厳しくなる必要があるのでしょうか。

お前はダメ。

お前はまだまだだ。

私はろくでもない。

私は価値のない人間だ。

こんな自虐的なことを思って一体何になるというのでしょうか。

他人(家族、同僚、友達など誰でも)に何かを言われた、何かをされたとしてもです。

それを自虐の材料にするかはあなた次第です。

ではストイックな取り組みはどうなるのでしょうか?

トレーニングなどで自分に厳しくするものです。

これはあくまでも自分主体で、自分の成長に繋がる厳しさ(情熱)であると言えますが、自虐的な思考の成果は自己否定にしかなりません。

誰かより劣っていてもいいんです。

それよりも何よりも、劣るも優るもないのです。

ただ自分としての人生体験が続くだけです。

自分に優しく、そしてあなたが唯一優しく出来る「あなた」に優しく生きてください。

あなたはあなたのありのままで美しく、素晴らしいのですから。