1曲リピート

同じ苦しみを繰り返していると、いい加減自分気付けよ、本当お前ってアホだなってなるわけです。凄いんですよね、この繰り返す同じ思考って。お前は何も達成していない。お前は何も出来ない。お前は変わっていない。お前は無能だ。

色々な技を使って自虐をするのが好きなのがエゴってやつです。これがまた本日やってきました。昼頃でしょうか。夕方にはクリアになりました。なぜかって、これは状況に関係なく現れてくるただの一曲リピートしか出来ないぶっ壊れかけたテープレコーダーだなって今日リアルガチに気づいてしまったのです。

色々と整理された感じでスッキリです。

さぁさぁさぁたまにやってみたくなる夜のヒットスタジオ行ってみましょうか。今日ご紹介する曲はなんと、僕のエゴの1曲リピートに負けないくらい、僕が昔1曲リピートしまくっていた曲です!ちょうど4年前くらいでしょうか。初めてのLaravelの案件をこなしながら、何年ぶりかのLAトリップに向けて徹夜を重ねていた時に聴いていまして、中毒性ありありの1曲であります。

あれ、前もしかして紹介した事あったっけ?と思って検索かけたらやっぱりあったw

Hidden Memories

こちらはリミックスの紹介だったので、今回は原曲にしましょう。

Imogen Heapさんで、Hide and Seek. どうぞ!ごめん観て思い出したんだけど、MV意味分かんないし古くて画質悪いけど許してw 一応これ公式w

現代病は呼吸が出来ていない病

呼吸が乱れると体の機能も乱れていきます。ここで言う現代病とは、数百年前には存在していなかった病気を指します

例えば花粉症。私の母親は昭和35年生まれ(2020で還暦を迎えました)ですが、花粉症という言葉は昔は聞いたことがなかったようです。

うつ病、パニック障害、躁うつ病、自立神経失調症、自己免疫疾患などなど、明らかに人間の生活習慣と意識状態に起因したと思われる病気はすべて現代病と言えるでしょう。

私は医師でもなく医学を勉強したわけではありませんので、私の勝手な解釈にはなりますが、これらはすべて呼吸が出来ていない病ではないのかと思ったのです。出来ていないとは、呼吸が浅いということ。

この現代のようなストレス社会、テクノロジー社会に生きる人は皆、呼吸に意識もしなければ、肺の容量の20%しか使っていないかのような浅く短い呼吸をしてしまっているのです。

これは体に大きな負担となります。酸素を取り込み、神経を整える役目のある呼吸を、本来のキャパシティのたった2割しか活用出来ていなければ当然です

酸素が取り込めなければ疲れやすくなりますし(走ると息が上がるのと同じ)、神経が2割しか整わないとなれば、体の機能は大きく歪んでいきます。

あなたは1日にする呼吸の何呼吸数えたことがありますか?呼吸の深さを意識して息を吸ったことはありますか?あなたのその不調、呼吸からかもしれないですよ。

姿勢で示せ

まだ始まってもいないのに諦めるのか?姿勢を改めろ。すべては姿勢だ。この一ヶ月でまとめた内容を思い出せ。自分第一の感覚重視で生きろ。自分の感覚を信じろ。周りを見るな。周りは居るようでいない。それでお前はここまで来たんだ。がんばれ。まだ始まってもいないんだぞ。本当に後が無くなるまで、思いっきりやってみろ。数字を気にしている場合じゃない。お前の中での普遍を生きろと言ってるんだ。いつまでいたちごっこするつもりだ。今越えないと一生越えられない。腹をくくれ。姿勢で示せ。

FUEL OF LIFE

毎週土曜日の夜はジェイと恒例のスマブラセッションなのですが、連絡もなければ連絡しても未読スルーなので今日はパスなのでしょう。ちょうど眠かったので結果オーライです。強いて言うならば来る道中にセブンでランチパックピーナッツを買ってきて欲しかったんだけどなー、まぁ良いでしょうw

連日の雨で気が晴れないと思いきや、気はめちゃくちゃ晴れてます。さらに数ヶ月前から暦に左右されるという意識が晴れてなくったので、毎日が当日なのです。毎日が当日?w 土日だからちょっとリラックスしようみたいな感覚が少なからずあったんです、ちょっと前までは。でも最近は毎日がエブリデイな訳です。夢のドリームですよ。この感覚で生きれるということは。左右される要素が極限に省かれているライフスタイルですから。

と書いているとジェイからLINE。腹を下したらしい。しかもインスタントラーメンでw どんだけやねん!ベンチプレス120Kgのマッスルマンのそれとは信じがたいです!遠く離れている母親も今朝レシピを聞こうと電話したら風邪引いたって言ってたし、季節の変わり目でみんな不安定ということでしょうね。おれも鼻水たれ蔵ちょっとやってたし。

んで今日は何を考えて生きてたんだっけ。あっそうだ、異性についてだ。なんか昨日の夜から今朝にかけてふと頭をよぎったのが、アイドル(男女問わず)の存在意義について。別におれはアイドルは好きでも嫌いでもないし、ガチファンになったこともないけど、拒否反応はない。モー娘。大好きだったし、AKBグループもかじったし乃木坂?赤坂、道玄坂?も有名所は分かるし、ジャニーズからEXILEまで大体わかる。んで逆に乃木坂大ファンの友達も居るし、いとこはLDH大ファンてことで、ファンになる人の性質も少なからず分かる気がする。でも今日の朝までは、そんな会えもしない振り向きもしないアイドルに大枚払って何になるんねん。好きなのは分かるけど、自分の中での価値観が、アイドル好きの価値観に何をどう考えても同調できないために、そんなもん追ってないでなんかせいや。なんて思ってた。

でも違うんだなって。俺は間違っていたというか知らなかった。みんながアイドルが好きな理由。そして何故芸能人が結婚すると○○ロスとか言う現象が起きるのか。やっと分かった気がした。それは、人は誰でも、誰かに恋をしていたいから、ということ。それが目の前に座っている人であろうと、ただ画面に映るだけ、会えてもコンサート会場で100メートル先に小さく見える人であろうと、人は人に恋がしたい。それが生きがい(生きる燃料)になるんだなって。理由なんてものは存在しない。恋するって気持ちいいんだなって。これは青臭い感じの評論でもない。人間の仕様である。本能ということである。これが死角だった。

何故かこの恋をするという感覚、久しく僕は体験していなかったような気がした。でも忘れてはいない。断片的な感じで覚えている。でもその感覚はわかる。そしてその感覚は、不思議と人間の感じられる感情の中でも群を抜いて、尊く、切なく、届きそうで、届かなそうで、嬉しくも悲しくもなく、怒りはなく、嬉しさよりもかけがえのなく、そして戻れそうで戻れない、叶いそうで叶わない不思議な感覚。だから最近だったら石原さとみちゃんの結婚で、さとみロスという言葉ツイッターでトレンドになっていましたが、数え切れない人々が石原さとみに恋をしていた。恋という夢のような感覚。前述の通り、届きそうで届かなく、叶いそうで叶わない夢の感覚を石原さとみが見せてくれた。だから石原さとみの結婚は多くの人にとっての失恋となり、多くの人の夢の終わりとなり、「ロス」に至ったと。

ただ、夢も夢で気持ちがいいが、実際の人の夢と人の夢が重なる夢のほうが良いに決まってる。てかお前はさっさと恋をしろ。忘れる前に。

メーデー

本日遠足デー。藤沢駅まで行ってきました。目的は旧友と会うため。もう19年も会ってなかったので、ほぼはじめまして(笑)ずっと会いたかった人なのと、同じ1989年生の独立組としてこの腐敗した世界で闘っている同志としても、どんな感覚を持っているのか非常に興味がありました。芽が育つと書いてメイ。昔から漢字と名前に強い僕ですから、小学校の同級生の漢字は全員分渡米前から忘れていません。さてそのメイちゃんですが、うん、百戦錬磨。に加えDGAF(Don’t Give A Fuck – 楽観的)さMAXで、あ〜そう言えばメイってそんな感じだったっけ?よく覚えてないけど今日話してあー確かに昔から自分を持つという軸は合ったような気がするけど、神経質ではなかったかな?と昔のキヲクの引き出しをひっくり返しながら談笑しておりました。何ていうんだろう、とにかく強い。強いっていうのは、自分がしっかりあるってことね。世の波に飲まれず我をゆく。振り返るとメイの周りの女子も全員強者でした。ゆましかりかなこしかり。敵いません本当に。でもまぁおれも自分を曲げませんから、1989年生に共通することなのかも知れません。功大もそうだし。我が道を行く世代なのでしょう。にしても鹿浜時代からの旧友の再会は多分もうメイで最後でしょうね。正直僕もメイとは一生会わんと思っていましたから。さすがに19年間を3時間で語り尽くすのは無理があって、あっという間の3時間でした。っていうか何で今更会うことになったのか?僕にもわかりません。運びってやつです。10月9日、メーデー(Mei day = MAYDAY)でしたね。不思議なひと時でした。

真のモンスタークライアント

1日をどう過ごしたかは大体夕食後のフィーリングで分かります。生き尽くしたのか否か。やるべきことをしっかりこなせたか。その日の生きた具合は夜の心でダァーッと分かるのです。本日はどうもやり尽くした感ありありで、悔いがない。これは別に毎日悔いを残して生きている訳ではないのですが、ある一定の限界点を超えると、1日を生きた実感が湧くのです。それが今日でした。心地が良いです。今日みたいな雨の日なんかはどうしても気持ちが晴れないものですが、if you get the inside right, the outside will fall into placeという英語のことわざがありまして、正にその通り。内面の感覚が整えば、外の世界は自然と形づくのです。

さて最近の一番の顧客は誰かと言いますと、自分自身です。この客が一番のモンスタークライアントであるのだという事を思い知っている最近でして、コイツの要望マジ大杉で草。さらにくれるものは「OK」のサインだけ。あっ、これやればいいのね、はいわかりましたやります、やりました、どうでしょう。

OK!はい次。

だけです(笑)報酬?無し。「お金という報酬」は、発生しません。しかしです。その自分自身のOK!という報酬がマジでデカい。誰かにもらう承認や報酬より35億倍デカい。何故ならばそのOKを下せるのは自分しかいないからです!世界で一つだけのOKを重ねて重ねまくる。それが山となり自分の世界となる。素晴らしい法則です。自分が自分に課す仕事が一番大変で難しいけど、それしか自分の世界を作る方法は無いんです。

どれだけ感情を作り上げられたか

今沈香のお香を付けながらやっべぇことに気づいてしまった。これ書いちゃって良いのかなってレベルの気づき。まぁ良いでしょう。

大体このブログを書く時は、文章を先に書き始めて、最後にタイトルを決めて出すということは以前書いたことがあると思いますが、本記事は逆からです。タイトルからです。

色々な作品がこの世にはありますよね。視覚なら絵画や写真。聴覚なら音楽。それらが動き重なる映像。作品とは異なりますが、体で感じることの出来る場所、名所。嗅覚と味覚を使う食べ物。

記憶であれば、場所や季節、時代、匂い、物語、景色、感触、恋愛などがあります。

私たちの記憶に残るものはすべて、私たちの中に感情が生まれたからです。しかもインパクトの強い感情です。忘れられない事。忘れられない事にはすべて、魂に彫刻をしてしまうほどの強く鋭い感情があったからです。

あっダメだ。これブレイクスルー行きだわ。この考察はかなり強めの流れを感じます。今週中にブレイクスルーにあげます。

テンポ感を鍛える

Yahoo JAPAN!を開かなくなって1ヶ月が経ちました。大鹿滞在の際、マスコミの流すニュースの無意味さ、そして実用性のなさを今回改めて痛感し、あっ、おれにはニュースは要らないんだ、と確信したのを発端にニュースを見ることをやめました。とは言えツイッターのトレンド欄とYouTubeのニュース欄が目に入るので、国民がリアルに騒いでいるニュースだけは頭に入ってしまいます。まぁこれくらいは許容範囲内でしょう。今までは無駄にYahooニュースを開いて無駄なインプットをしていましたから。ニュース閲覧を止める前と比べれば、今のニュース摂取量は1/100以下でしょう。不要な情報が入ってこなくなり、最初はやはり違和感(知らなくてもいいのに知らなければならないと感じる依存感)を感じましたが、最近は慣れました。ただインスタチェックはまだまだ抜けてない。う〜ん、ただの日常の共有と言えど、インスタもかなり中毒性あること間違いなしです。マジでインスタもしっかりとした意図が出来るまでやめるかも。だってマジで意味ないのよね。何にもならんw まぁ自分が好きなもの上げる分には問題ないんだけど、それで通知を常に気に張ったり、誰かのストーリーを待っていたりする意識状態は、ニュース閲覧の心理とあまり変わらないので。

まぁそれは置いておいて、最近の取り組みですが、リズム感を鍛えています。別に今までリズム感がなかったわけではありません。あ、ごめんなさい、リズム感じゃないや。テンポ感だ。テンポ感を鍛えています。どういう事かと言うと、絶対音感的な感じで、絶対テンポ感、つまり人間メトロノームになろうという取り組みです。とあるメトロノームアプリを使っているのですが、リズムトレーニング機能が付いており、指定の小節数音あり、指定の小節数音無しにてテンポを鳴らすことが出来ます。それに合わせてドラムパッドに8分音符を叩き込むわけですが、音無しの小節で自分の中でテンポを鳴らし、音ありの入りのビートにズレなく入れるか、という練習や、1小節4ビートを2ビート(2分音符)に減らしてビートの距離を広げて8分を叩く練習などを行います。最初は無理やん!って思っていましたが、定期的にやっていると何気にコツが掴めてくるようになり、音と音の距離が覚えられるようになります。すると叩く8分で自分がどこかで走ってしまったり(早くなってしまったり)、遅れてしまった時に自分で自分のミスに気付けるようになるのです。凄いですよね?このテンポ感の話は面白いのですが、さらに面白いのが、このテンポ感を鍛え始めてから、スマブラの勝率が上がっているのです。これはガチです。関係あります。どこで何がズレ、どこで何が上手く行ったかを認識できるアンテナはどうもテンポ感のアンテナと同じらしく、ゲームや他の取り組みにまで好影響を与えているという発見がありました。

GOOD FUCKING NIGHT.

あなたの行動力を封じ込めている本当の原因をあなたは知っていますか?

私たちが動けない理由

私たち人間はやってみたい事が沢山あります。人間として生きている以上、常に体を感じて体験、そして創造力を通じて創作をしたいと思うのはごく普通なことです。

しかし色々な事を理由に自分を制限し、行動に移せるのに移していない人が多くいます。これは一体何故か。どんな原理が働き、私たちを止めているのか。

私たちが動けない理由は「評価」です。評価と聞くと、他人からの評価と思いがちですが、評価は他人からに留まらず、自らを判断する評価も含まれています。

自己評価と他人からの評価の仕組みを理解すれば、この評価という概念は何の役にも立たないただの幻想であることが分かることを理解し、批評に左右されずに行動できるようになるでしょう。しかしその幻想が見えてしまう仕組みを理解しなければ、自分を制限している評価を越えることはできません。

評価という概念を越えると、自由な体験、そして自由な創造が出来るようになります。本記事ではあなたがより自由に生きて、自由に表現できるよう、あなたの行動力を封じ込めている本当の原因について解説していきたいと思います。

行動力が封じ込められる原因1: 他人からの評価

まずは評価の基本である「他人からの評価」について解説していきます。他人からの評価を恐れる時、実際は何に恐れているのか、またはどんな言い訳を作り上げ、その恐れから背いているのか。根本的な原因について探っていきます。

他人からの評価と、後述の自分からの評価で共通となる重要なポイントは、批判と好評も含まれているという事。批判への恐れと好評への欲望は表裏一体。恐れと欲望の原理です。批判を恐れると同時に、好評を欲する。これは重要なポイントなので覚えておきましょう。

他人からの批判

人からの評価を恐れる原理は、自分で自分の価値を決めることが出来ていない場合や、価値が定まっていない時に、他人からの評価に自分の価値を頼ってしまう事にあります。

評価に左右されるという事は、自分の取り組みに自分が納得できていない証。つまり他人にどう見られるか、どう思われるかが動機になっており、自分主体の動機がない状態を指します。

例えば、下記のような思いがあるとします。いわゆる承認欲求と呼ばれているものです。

  • 人から凄いと思われたい
  • 認められたい
  • 一目置かれたい

何事に取り組むとしても、自分第一ではなく、人からどう思われる第一になっている状態と言えます。人にどう思われる第一だと、承認欲求の反対の側面である恐れも同時につきまといます。

  • 見下されたくない
  • 見捨てられたくない
  • バカにされたくない(日本人特有のみっともない精神)
  • 変に思われたくない
  • 偏見の目で見られたくない(もしかするとこんな風に思われるかもしれないなど、実は自分が持つ自分への思考または自分が他人へ持つ思考)

これらも自分第一ではなく、他人ありきの思考である事が分かると思います。

承認欲求の3つはポジティブな要素で、基本的には誰でも持っている感覚ですのでそこまでの問題はありません。しかし問題になってくるのは、承認欲求の反対の側面である批判への恐れの部分です。

批判への恐れの正体

5つの批判への恐れを挙げました。

  • 見下されたくない
  • 見捨てられたくない
  • バカにされたくない(日本人特有のみっともない精神)
  • 変に思われたくない
  • 偏見の目で見られたくない(もしかするとこんな風に思われるかもしれないなど、実は自分が持つ自分への思考または自分が他人へ持つ思考)

これらは一見、人にされたくない事、要するに自分が避けたいような事柄であるかのように聞こえます。ですがここで重大なからくりがあります。この自分がされたくないことですが、実は自分が他人にしてしまっていること、と言ったら驚かれるでしょうか。驚いてください。そうなのです。

恐れるもの、それは自分がすでに持っているものにしか恐れられないのです。

これらに恐れを感じるのであれば、あなたは恐れの内容を無意識に他人にしてしまっているのです。

  • 見下す
  • 見捨てる
  • バカにする
  • 変に思う
  • 偏見の目で見る

自分の思考や感情をよく観察してみてください。するもされるも表裏一体。いずれかの感情が浮上した場合は、自分の中に他人への批判の種を持っているサインです。中性(ニュートラル)に生きる事が大切です。批判をしている暇はありません。自分が自分を第一に考える、自分主体の意識に変えていきましょう。

他人からの評価を越えるために

他人第一意識の仕組みが分かったら、ここで一旦ストップ。大きく深呼吸をして、自問してみましょう。

他人からの評価は本当に意味のあるものなのか。 他人からの評価は、喜び、価値、そして納得を自分に本当にもたらしているのか。 自分はその取り組みに励むのは他人からの評価のためのか。

他人からの評価は他人が決めるものであり、さらに大抵の場合は一瞬で過ぎ去るのが大衆の評価です。それが良いことであろうと悪いことであろうとです。

自分の価値は自分で決める。そうすれば何を追い求めることなく、何に恐れることなく、一生懸命に自分のプロジェクトに取り組むことが出来ます。是非一度自分で答え合わせをしていただきたいと思います。

行動力が封じ込められる原因2: 自分からの評価

他人から評価の仕組みの次は、知らぬ間に自分を制限している自分から自分への評価です。自分を動けなくするような理由をどんどん作り、自分の行動の停止を正当化する。他人からの評価に制限されるよりタチが悪いのが、この自己評価です。勝手な思い込みと決めつけで、あらゆる挑戦を遠ざけるようになってしまいます。

ここからあなたの行動力を封じ込めている本当の原因について探っていきます。自分を制限させてしまう自己評価には2種類あります。幻想型と比較型です。

幻想型

まだ体験したこともない事を頭の中で再現し、勝手なストーリーを作り上げ、それを信じ込むのが幻想型です。そして大抵の場合、作り上げられるストーリーはネガティブな事が多く、行動を制限させてしまうストーリーが多いのが特徴。モチベーションを上げるストーリーはほぼ一切作られないと言ってもいいでしょう。

  • やっても無駄
  • どうせ無理
  • まだ無理

比較型

優越感と劣等感の2つが表裏一体として存在しており、自分が優越と劣等の2つに割れ、比較の意識に留まってしまうことにより行動が制限されるのが比較型です。

  • 自分は優れている/自分は劣っている
  • 自分には能力がある/自分には能力がない
  • 自分は恵まれている/自分は恵まれていない

幻想型: 挑戦を破棄する仕組みを理解する

やっても無駄/どうせ無理/まだ無理 挑戦する前から諦めている時の思考です。挑戦してみたいことがあっても、やる前から諦めてしまうのは何故なのでしょうか。よく考えてみるとおかしな話です。

原因はシンプル。自分を失いたくない。大切な自分の懐を守りたいのです。自分を失うとはどういう事か。まず挑戦を放棄するということを別の言葉で表してみると「現状維持」です。挑戦をしないわけですから、今の状況が続くだけです。

でもここでまた矛盾が出てきます。やってみたい故の挑戦なのに、やりたくない自分も居る。

原因は失敗という幻想です。

失敗すれば大切な自分にダメージ。自分に損傷。自分の喪失ということになります。

自分の喪失に繋がる失敗のダメージとはずばり

自分の行動が報われなかった時のダメージ

です。

自分が覚悟を決め、気合を入れて挑戦するわけです。この取り組みが失敗するとなればこの取り組みが水の泡。自分の取り組みが報われないと言う結果になるのが、自分にとって一番の大ダメージであり、一番に避けたいシナリオになるわけです。

幻想型の自己評価を越える方法

ではこの幻想型の自己評価を越えるためにはどうすれば良いか。

ただ一生懸命に取り組むだけです。何もないところから挑戦するわけです。失うものなんて何もないではありませんか。やりたいならやれ。やりたくないならやるな。やってみたきゃやるだけ。

人生は人として生きると書きます。人にはやりたいこと、してみたいことが沢山あります。それをやることが人生です。実行して初めて見えてくる景色を皆さまにも是非見ていただきたいと思います。

比較型: 行動を制限させる優越感と劣等感の仕組みを理解する

自分は凄い↔自分には何の取り柄もない

誰かより優れていないといけない。誰かより劣ってはならない。これらは優越感と劣等感が生み出す偽装されたモチベーションです。長続きもしなければ、この動機でなされた行動には負のエネルギーが付きまとい、どこか力に欠ける作品となる傾向があります。

宇宙という全体性から創造されたものではなく、自己という断片的な場所から生まれたものは、クオリティというよりも、心に響く「何か」に欠けてしまうのです。

優越感と劣等感を感じる原因

優劣の差を感じることは、他人との比較に起因すると思われがちですが、優越感と劣等感はすべて自分の中で行っています。優越感だろうと劣等感であろうと、他人と比較しようと自分で思うだけだろうと、優劣は自分でしか感じることが出来ないのです。

では優越感と劣等感を感じてしまう原因は何か。答えはずばり、自分と結果が同一化してしまっている事が原因です。「あなた」が残した「結果」は、誰かより優れていた。誰かより劣っていた。それと同一化しているから、勝ち負けがある。勝って嬉しい。負けて悔しい。優越感と劣等感は、勝ち負けです。

実際、優れるや劣るなどの概念は、この物理世界では避けることが出来ません。あなたはウサイン・ボルト(陸上100m世界記録保持者)より絶対に足が遅いし、ウサイン・ボルトより絶対に日本語が上手です。

しかしこれは概念に過ぎず、優劣(勝ち負け)を決めているのは自分。その結果と自分が同一化しているために、優越感や劣等感を感じるわけです。

自分が足の速さを追い求めていなければ、事実負けていても特に劣等感は感じませんし、日本語が上手な件も事実勝っていても優越感は感じないのです。

比較型の優越感と劣等感を越える方法

ではここで言う「同一化」という言葉はどういう意味か。同一化とは、あなたではない何か、要するに結果が、あなたの一部となってしまい、結果の内容で自分が大きくまたは小さくを感じてしまうという状態。つまり結果で左右される意識状態という事を「同一化」と言っています。

優越感と劣等感は、優劣という事実が問題ではなく、それと同一化してしまっている意識の問題。

優越感と劣等感を越えるためには、自分が何を同一化しているかをまずは見極めること。何かが分かったら、少しずつ自分と結果を切り離していき、一生懸命に自分に取り組むという、結果ありきではなく、自分主体の取り組みに変えていくことです。

あなたの行動力をアップさせるための心得まとめ

  • ただ一生懸命に取り組む
  • 失うものは何もないと知る
  • 評価や比較よりも自分の納得を第一優先とする
  • 結果が自分と同一化しないように気をつける

さいごに

インターネットが普及した今、今までは映像でも見ることの出来なかったような、地球の反対側の人までを見れる時代になってしまいました。それは素晴らしいことで、凄い時代に生きているわけですが、それよりも何よりも怖いのが、インターネットで「生きること」が奪われていってしまっていることです。

人生の一部のインターネットではなく、インターネットが人生になってしまっている。せっかくの人間体験、体を使って感じるべきものが、コンピュータスクリーンに張り付き、行動が制限されてしまっている。さらにそこに映る様々な人を見て比較し、批評に恐れ、劣等感を感じ、行動力が奪われていく。

インターネットは便利なものですが、インターネットがなかったら、もっとみんなは活力に溢れていたのではないかと思ったりもします。しかしこれは「たられば」のお話。インターネットと共存していくため、そしてインターネットで私たちの人生をより豊かに、そして行動力に溢れたものにするため、本日も一生懸命に生きたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

東京は泣いていた

昨日は2月?3月?ぶりに東京に行ってきました。簡単なタイムラインを説明しますと、表参道B4到着が11時半からで、その日大鹿から来ていた半日滞在の世良くんと合流しBlue Bottle Coffeeで30分お茶、その後一人で朝飯をPIZZA SLICEでピザを一切れ食べるもののそこまで美味くなく、食べ終わってキルフェボンでお土産を買いの、大鹿ファームの悟くん出店中の国連大学前のファーマーズマーケット(世良くんはこれの手伝い&家族面会)で野菜をたんまりいただき、そこから野菜を担ぎながら骨董通りに入りフォーナインズ青山でメガネを買い、腹が減ったので骨董通り入り口のTacoBellでクランチラップサプリームを買うもクソ不味く二度と日本でTacoBellを食べないと誓い、その時点で14時半、ジェイと合流すべく表参道から千代田線をまっしぐら、綾瀬駅まで爆睡がこの上なく至福のひと時→綾瀬駅でジェイと会い→ジェイんち→3時間スマブラでボコさせていただく→綾瀬駅前の焼き肉ふたごでジェイとシヨンと最高に楽しい飯をいただき→帰路→松戸まで各駅→松戸から快速グリーン車天王台でございました。お疲れさまでした。これぞ充実!久々に詰まった1日でした。

ていうかですよ。東京の皆様全員マスクを付けていらっしゃいました。当たり前ですよね。世界的大流行の真っ只中ですから。しかしです。それよりもなによりも、全員マスクを付けていらっしゃいますから、顔が見えない訳です。するとどうなるか。人がいるんですけど、人がいないんです。表情が見えない人はもはや人ではない。そう、東京にはもはや人は居なかった。東京は泣いていた。心の交わりがない東京に東京はなく、ただ人に踏まれるだけの東京は東京ではなかった。ただのアスファルト島。そして人々が見る先は、意識の先はスマートフォン。パンデミック、マスク、スマートフォン、東京。そこに誰がいるでしょうか。誰か居るのでしょうか。僕の感じる限り、昨日は誰もいませんでした。仮面を被りマトリックスの世界に入るロボットの群れ。ある意味最先端ですよね。哀しき最先端。まぁ東京と言っても、他の地域からの人が集まる繁華街はこの傾向にあるでしょうね。足立とか十番とか、東京っつってもローカルな東京にはまだ東京は残っているはず。だと信じたい。