競争ではない事柄での勝ちは無駄

決勝トーナメントまで勝ち上がりました。TOP8です。優勝してください。勝ってこそ意味がある。もちろん勝ちに執着せず勝ちに行くことが重要ですが、あなたが負ければ誰かが勝つ。あなたが勝てば誰かが負ける。ということは別に誰が勝っても負けても良いんです。だったら勝ちに行ってください。ということです。

しかしです。勝ち負けの無い事柄なのにも関わらず、勝ち負けという概念が離れずに、苦しんでいたことがあります。例えば、お金持ちの方が勝ち。自由な方が勝ち。理想のパートナー、理想の人生を送っていた方が勝ち。それ以外は負け、のような具合です。

この勝負、あなた以外誰が気にすることでしょうか。決勝トーナメントで優勝すれば、応援してくれた観客は祝福してくれるかも知れません。ですがこの競争ではない勝負であなたが勝利を収めた時(その勝利を決めるのは皮肉にもあなた自身しかいないのですが)、祝福してくれる人は誰もいません。自分の中でそれが勝ちなのか負けなのかもわからず、それを追い求めてしまうのです。

無駄な勝敗を自分で勝手に決めて、勝手に自分を敗者にしないでください。勝手に自分を勝者にしないでください。

生きていることをまずは感じる

あなたが今生きていなければ、現状の善し悪しは別にして、何もかもの存在が皆無となります。この森羅万象が無くなるのです。ということは、人生、人として生きることのファンダメンタル(基礎)、ないし生きる上で必要不可欠な感覚は、紛うことなく、生きていることを感じることにあります。

あなたが生きているからこそ今がある。

生きていることを感じてください。幸せになるために生きるのではない。生きているから幸せだ。どこかで聞く言葉です。

意見への別意見は反論、反対ではない

別の意見が届くと、あたかも反論された、反対されたと感じてしまうことがありましたが、これは実は自分が自分の持つ意見に執着を持っているから起こる現象で、残念ながらその状態は別意見を受け入れようとしておらず、自分の意見が絶対である、という非常に幼稚な意識状態が存在していることを証明しているのです。

反論、反対は、その意見そのものの逆、すなわちその意見の存在そのものを否定することであり、別意見とは別物です。

別意見は、同じ人間として感じる、改善のための提案であり、「より良くする」という意味が込められているのです。

私たちがマスターすべき唯一の精密機械、それは人間という名のマシンである。

これは私が実施していることです。非常に難しいです。どんなゲームより難しいです。特に、思考と感情の完全なる支配はかなりレベルの高い無理ゲーレベルの難易度を誇ると思います。

私は多くのスキルを兼ね備えますが、スキルを習得しようとしたことは一度もなく、どう人間というマシンを操作したら、そのスキルを使えるようになるか、というスタンスで何事も取り組むようにしています。

例えば楽器演奏であれば、私はピアノとマーチングスネアドラム、トランペット、そして次はギターを習得しようと考えていますが、どの楽器を練習するにしても、その楽器そのものの上達は意識していません。どのように自分を手先(体)を操作し、支配するかを意識しています。

人間の仕組みを掘り下げていくには、ノートカテゴリーでは膨大になりすぎてしまうため割愛しますが、人間の操作には多くの知識と実験と失敗の繰り返しが必要不可欠です。

人をお金だけで判断する人は最低最悪

人は人であるのに、人の持ち物で人を判断しているのですから、最低最悪以前に、よくわからない勘違いをしてしまっている状態です。

さらに残念なのはその人本人であり、他人にすることは自分にしている、という普遍的な人間の性質がありますので、自分の本質をお金というコンセプトで置き換えてしまっているということになるのです。

お金で判断され、それがその人をトリガーさせてしまう(ムカつかせてしまう)場合は、ミラーニューロン(お互いの痛みの浮上)となり、お互いのための出来事になりますが、それ以外の場合は、判断している人のみがコンセプトの渦に溺れてしまっている状態となります。

お金は使うものです。あなたではありません。お金から自由になりましょう。

人それぞれ人生における役割がある

あなたの今日の行いが、たとえ無意味に感じたとしても、あなたのその行いがなかったら、起こらなかったことは必ずあります。

そして覚えておかなければならない事があります。我々人間は誰一人、無意味ではなく、私たちそれぞれの役割があるということです。

さらにこの役割という言葉の意味にも注目です。これは実際に役に立つとか立たないとかという意味ではありません。

あなたが家族に乱暴に振る舞っているとしましょう。それにさえも役割があるという意味です。乱暴が良いことであると言っているのではありません。その行為が周りの人間のアウェイクニング(意識的目覚め)を引き起こすための引き金、着火になる可能性があるということです。

人生は競争ではない

競争したいですよね〜。どうにかして奴を越え、ヤツを負かしたいですよね。
負かしてどうなるんですか?
それがあなたの定義する価値ですか?

あなたが勝とうと、私たちは同じ飯を食べ、用を足し、寝て起きて、ヤッて年老いて死ぬんです。

それよりも何よりも、「自分」という作品を仕上げていってはいかがでしょうか。

勝ちは一瞬ですが、その作品を仕上げていく過程は一生で、その作品と一生共にあれるのです。

勝ち負けを伴う競争をするのではなく、自分をただただ極めていけば良いのです。

There is nothing wrong with feeling weird and unclear.

Because it’s part of human nature. When clouds clears up, feels great.

And we human beings are one and the same with the whole nature. That means we share the same kind of characteristics and principles as Mother Earth. Or the entire universe for that matter.

There’s never a year that doesn’t rain. There’s never a day sun doesn’t raise and set. It’s the rhythm of nature.

It’s okay with you feeling down and having the thoughts of you getting nowhere.
It’s okay to feel stuck in the mud for weeks and months and don’t want to believe like there is no way out of it.
Everything is okay! Because without them, you won’t arrive to the destination.

But there is one thing that you have to do in order to get to the destination.

“You gotta keep moving. And not settle.”

エゴは巧みにあなたを翻弄する

エゴは欲望と恐れを餌に生きています。

千と千尋の神隠しのカオナシ、あいつが宮崎駿が表現したエゴです。
千は「今を生きる象徴」として宮崎駿が表現したと見ています。

カオナシは千を見た目でしか判断することが出来ません。
カオナシは千を求め、強引にも狂気を纏い千を捕まえに動きます。
金を無限に手から出し、それを餌に千を奪おうと試みるのです。

しかし千はカオナシの金になど一切興味を示しません。
何故ならば千には欲望も恐れも無いからです。
彼女は今やるべきことを実施しているだけなのです。

カオナシの言動を見れば火を見るよりも明らかなのは、欲望(千を求めること)と、恐れ(千を得られないこと)に翻弄されているということです。自己を失い、狂気を帯びた負のエネルギーとしか言いようのない有様となり、最後には自分を破滅に追い込む。

馬鹿な話です。

翻弄されぬよう、気を引き締めて息ましょう。

自分が納得行くまで

今は2020年の7月2日。木曜日。長かった一つのWebプロジェクトが、今週末で完了、納品となります。その翌週には別プロジェクトの納品があり、並行しているプロジェクトも数件、新しい仕事の話も数件。貯金は今までの人生で一番ある。でも全然楽しくない。

人生に文句がない。それがつまらなさすぎる。と書いて気づいたが、この甘ったるいというかなんというか、新しいことにチャレンジせず、今までに積み上げてきた技術と信頼に胡座をかき(もちろんクライアントワークは全力を尽くしていますが)、わかりました、事が問題なく進むことはデフォルトになったようなのですが、新しい挑戦に怖がる自分に嫌気が指してきているのです。だから人生に文句はない。自分には文句があるわけです。

ゲーム・オブ・スローンズのシーズン2、7話を見終わったばかりなのですが、どうも僕のエゴを見ている気分になるのです。名声を博したい。自分の王国を制したい。そんな欲望なのか、自分への怒りなのかが、浮上してきます。馬の骨と同義である今の自分を認められないようなのです。

ということは何なのかというと、何を僕が企もうと、それは企みであり、その行動そのものではなく、その行動の先にあるものを求めていることが伺える訳です。我ながらお恥ずかしい事実であります。

ただ、少しずつですが出口は見えてきたような気がしているのです。暗い洞窟の中で迷走している訳ですから、気分が良くないのは当たり前かもしれません。しかしこの暗い洞窟に出口があるのかさえ、わからないと言えばわかりません。

今日の記事の目的は、自分の内面を文章化することにあります。そうすることで自己との切り離しを試みる。そんなところです。

もう少し汚れを絞り出してみます。そもそも自分の納得を外的要因に委ねているのがおかしいのではないか。例えば、自分の今の望みを書き出してみると、もっと自分を知ってもらいたいのです。世界にです。そしてこんな変な人間、そして変な物語を持った人間も元気に生きているのだ、と世界に伝えたいのです。そして色々な境遇を越えてその境地にたどり着いた人々に、どんなストーリーを歩み、どんなライフレッスンがあったのかを聞いて回りたいのです。

そしてその一つの数え切れないストーリーが、数え切れない人々にインスピレーションを与え、この美しい地球を皆で共有できるような世界に変えたいのです。

そのためにはまずはある程度のフォロワーが必要なのです。そのために何をすべきなのか、マジで考えているのですが、まずは自分が見本にならなければならないのです。自分が最初のモニターであり客であり、フォロワーであったら、オレは翔樹の何が見たいのか。これに納得が行くまで、模索し続けていきます。

もっと書けるけどダルいんで落ちます。