Peacefulness and acceptance are the source of true life energy

Peacefulness relaxes you. Both emotionally and physically. And peacefulness is accessible to you anywhere anytime. But to access the realm of peacefulness, you must first accept the fact that you create your own reality.

Let’s say you are continuously talking to yourself about something that you said or done, and you regret what you’ve done. But if you take a close look at this very action, it serves no purpose at all. It just keeps beating and beating you up for the thing that you cannot reverse.

So the self talk certainly does not give you peacefulness. The self talk denies you. Totally the opposite of peacefulness. The self talk is pretty much a war that’s happening inside of you that seems to have an end. And the fact is, it won’t end if ever. When next shit happens, the subject changes. The self talk can only end, by your feeling of “I’m just sick of thinking about this same shit over and over and I’d rather not think about it because it doesn’t seem to fucking end.”

For the things you did that you shouldn’t have done.

Accept the past. Accept the now. And accept the unknown future events that are to come.

And that true acceptance gives you peacefulness. Because it’s(whatever this moment takes are) already done anyway. We also don’t manage to have any power to change them either.

If changes are needed, act accordingly. Or else, no need to get mad or resist. Chill and relax. It’s just a movie.

人への態度は自分への態度

パートナー、家族、友達、取引先。相手が誰であろうと、自分の発する態度は自分のものである。例えば、あなたが誰かを見下すのであれば、その見下すという行為は別として、その態度を作り上げているのは自分である。

誰を見下しているのか。相手だ。
誰が見下しているのか。自分だ。

そして人生という体験は、自分の中で全て描写されるという絶対的ルールがあるため、何を感じようとそれは自分の中での創造になる。
ということは、人への態度は自分への態度ということである。

「自分にされたくないことは人にするな」とは言うが、それはもちろん人のためでもあるが、一番のところは自分のためなのである。

怒り、ムカつきの原因を辿る

怒り、ムカつきは全て、外的要因に「トリガー」された自分の中の感情である。この事実を認めない限り、その感情を超越し、魂レベルでの成長を実施することはできない。本当の意味での自由は、自分の感情に責任を持ち、コントロールすることである。

怒りが浮上したら、その状況ではなく、その状況が「自分の何を脅かしたか」辿れば、本当の原因がわかってくる。根本が分かれば、あなたの勝ち。

その足していく1(イチ)

何故人は(というか俺は(爆))近道をしたくなるのでしょう。近道をしようとして10年間、結局どこにも進まずwww やっと目の前のその一歩が全てであることに気づき、進めるような気がしてきました。

しかしそれに気づけたのは幸いですが、逆に言えばもう夢を見ることは出来なくなってしまったため、かなりキチィ茨の海(shoutout to Chihiro Onitsuka)を歩み始める羽目となりました。要は昔は今より将来のほうが大切だったんです。俺は将来こうなってやる。俺は将来BIGになってやる。俺は絶対…などなど、多数のデイドリームをビリーブするデイ・ドリーム・ビリーバーだったのですが、その叶わないかつ見るのが楽しい夢をもう見ることが出来なくなってしまったのです。これは大問題、というか、致命的です。この「今」という誰もが逃れられない空間(生きている限り続く)と真っ向勝負しなければならなくなってしまったのです。

となると真っ先に浮上する試練が、自分の今の状態を認めざるを得ないということです。どういう事かと言うと、自分が何を今まで達成していようと、何を達成していなかろうと、おそかれはやかれ、今の自分は今の自分なので、そこに少しでもいいから、今生授かった人間という体験をより良くするための成長を、少しでもいいから日々足していかなければならないということです。

昔はその足していく1(イチ)が小さく見えすぎて、その1の意味が理解できなすぎて、足すそのものの行為ができない。でも最近、その1しか足せないのがやっとわかって、その1の大切さがやっとわかって、今まで見ないふりしてた自分にやっと足していけるようになったんです。

でももちろん、無意識に足してきた1はたくさんあるのはわかっています(それ無くして今の僕はいないですから)。でもそれを意識的にして、さらに意識的にその一歩を踏み込んで行かないと、自分の残したい足跡が残せるようにならないし、更には自分が本当に見たい景色が見れないんだなってわかったんです。