人に見えるものは、自分の中にあるもの。人が嫌になるのは、自分の中にも同じものがあるのが嫌だから。人をありのまま認められないのは、自分のありのままを認められないから。自分が感じ思うことは、他人または外部的要因が引き出してくれた、自分の中にあるものです。人が自分の中に入ってその感情を有効化するなんてことは考えられませんから、何を思おうと感じようと、それは全て自分のものなのです。しかしそれを認めたくないのが人間で、何が何でも人のせいにしたくなってしまう。何か気に食わないことをされて怒る人がいますが、そういう人は「何もしてない」のにも反応するのです。要は、自然と「ムカつく理由」を探しているのです。その反対に、反応している人を受け入れることは非常に難しい。反応している人は「燃えている」状態ですから、しっかりと自分を保たないと、自分も燃やされます。要は自分も反応し始めてしまうということです。しかし面白いことに、反応している人を見て、悲しみや怒りを感じたら、それはまた今度は自分の中に出てきた感情ということになるのです。なので、反応している人を見て、「お前が反応しておかしくなってるからこっちも嫌な気分になるんだよ」と言っても、それは通用しないということになります。すなわち、自分自身の意識の鋭さは、「反応している人」が自分の目の前に現れた時に試されます。自分の中に反応がなければ、相手の反応を見ても、豚に念仏猫に経というわけです。そんでもって今日僕は反応している母由紀子を見てムカついたので、まだまだ僕の意識は研ぎ澄まされていないのだと思います。女々しくて女々しくて女々しくて、つらいよーおー
2015/3/15