長野県大鹿村から中継でお届けします。中継でもなんでもないんですが、たまにはというか、大鹿村からブログを書いた記憶があまりないので、最近の感覚をアウトプットしてみたいと思います。いくつ出てくるか分かりませんが、ひとつずつ。
まずひとつは、生きることについて。人は生まれたくて生まれてくるわけではありませんが、生を授かった以上、生きなければなりません。自分が誰のもとに生まれようと、どこに生まれようと、どんな時代に生まれようと、生を授かった以上生きなければなりません。しかしながら、人は皆平等と言えど、生まれた環境によって人生の内容は大きく左右されます。へんてこな親のもとに生まれた。教育や教養が未熟だった。自己が確立しないままに社会へ出てしまった等など、この人間の創り上げた文明に対応できない状態で大人になってしまうと、様々な弊害が生まれます。
ここで残酷なのは、弊害を持ち合わせようといなかろうと、生を授かった以上生きなければならないということです。さらに残酷なのは、弊害を持ち合わせている人に限って、さらに人生体験が悪化していくという事実です。金銭面だけならともかく、それが肉体、そして精神に悪影響を及ぼしていくのです。するとどうなるかというと、選択肢がなくなっていくのです。自分のしたいことができなくなる。そして自分のしたくないことをしないと生きていけなくなるのです。
したくないことをしないと生きていけないという状態は、自分の意志を尊重しない生き方と同義となります。それは自己否定や自己嫌悪、さらに過去や人を恨みながら生きるという、言い方は良くありませんが、一番NGな生き方となってしまいます。この状態を起源としてしまうのが、中毒(Addiction アディクション)です。酒タバコ、薬、セックス、ギャンブルなどを介して、自己否定を忘れるために中毒に走るのです。するとさらに体と精神は蝕まれていきます。自分の持つ過去の痛みを治癒するのではなく、中毒で自分の向き合いたくない感情を紛らわすのです。
ではここからの脱出方法はあるのか?残念ながら、中毒に苦しむ本人に中毒を克服したいという意志がない場合、自ら中毒を克服するのはほぼ不可能でしょう。中毒は溺れている状態であり、その人に泳ぐ力がない場合は水面に上がることは不可能だからです。これは万事休すなのか?ほぼ万事休すです。救命救助隊が浮き輪を投げてくれないとほぼほぼ終わります。ただ面白いことに、浮き輪を投げてもそれに掴まろうとしないどころか、浮き輪が助けの浮き輪に見えず、浮き輪が余計なお世話に見えてしまって浮き輪に手を伸ばさなくなってしまう状態もあり得るということです。おーい、お前溺れそうやで。大丈夫か?はよ浮き輪に掴まるのだ!と言っても、は?余計なお世話や!こっちはこっちで大変な思いしてるんや!貴様に私の何がわかる!と言わんばかりに浮き輪に掴まることを拒むのです。
しかしです。友人が溺れかけていた場合は別です。掴まることを拒んでいようと、助けねばなりません。友人を見殺しにすることはどうしてもできない。ただ浮き輪に掴まることを拒んでいる人を助けることは至難の業です。もがき溺れて自己を失ってバタバタしながらパニクっている人を掴んで引っぱり上げることは大変なのです。それでも助けないと死んでしまいます!だから強引にも手を掴んで引っぱり上げます。マジで疲れるし、しないのでよければしたくないし、ましてや助けてもらうことを拒んでいるのですから、無理やり助けなくてもいいのではないかとさえも思ってしまいます。でも助けないとダメなんです!ワンピースのルフィの声が聞こえてきます。仲間だから!!
さてなぜにこんな話をしているかというと、リアルガチのお助け案件が現在進行形でございまして、マジの救出案件。助けないとマジでこいつ終わる。っていう案件が今あるんです。終わる?人間としてです。
あとはここ数ヶ月の出来事のお陰で色々となんか吹っ切れた気がした。理想とか、人生こうあるべきとか、全部なくなった。人生とは、今この瞬間を100%体験して、共有し合うことなんです。そこに駆け引きが生まれるから人生おかしくなる。隠し事、決めつけ、偏見、騙し合い、脅迫、そして攻撃と謝罪。これらがあるから人生体験がおかしくなる。生きているだけ、その場に一緒に居れることだけが最高で、それ以上でもそれ以下でもない。
人が好きとか嫌いとか関係ない。ただの選択。そしてただの縁。縁があって、選択が一致するなら、それ以上の仕合わせ(幸せ)はないのだから。
記事画像は隣の中川村の銀杏並木
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こちらは昨夜の皆既月食の夜空
これがiPhone 14 Pro Maxの実力。あっぱれ!